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おあな ひでいち

小穴秀一

おあな ひでいち

1880(明治13)〜 1940.5.10(昭和15)

明治・大正・昭和期の実業家(電気・炭酸瓦斯)

埋葬場所: 4区 1種 35側

 1905(M38)東京帝国大学電気科卒業。東京電灯、浅野セメント、九州電灯の技師、技師長の職を経て、'10ドイツに留学し、カールスルーエ市工科大学電気科長のアーノルドにつき電気機械製作に関するノウハウを修得、西欧各国の工場や電気事業を見学視察し、'13(T2)夏に帰朝。 秋より東京市浅草区玉姫町に日本で初めて電気機械器具を製造する小穴製作所を創業('45日本電気精器株式会社と改称)した。
 同所の製作する発電機電動機変圧器等強電流の諸機械に関しては定評があり、鉄道院、海軍省、大蔵省、農商務省、帝国大学等各官省および民間電燈電力会社の指定工場となり、事実上特殊工場として指目せらるるに至った。 その他、電気鉱石選別器、X光線用高圧装置、鉄道用信号機、変圧器、油濾過器、蚕種電機孵化装置電気脱塵装置等の新方面も開拓し特許を得た。 更に、無線電信用発電機の発明は多方面から賞賛された。後に同志数名と合資会社日本無線電信機製造所を創立して専務取締役となり、無線電信装置一式を供給する会社も設立している。
 '17(T6)日本初の液化炭酸ガス製造工場を浅草に建設し、日本炭酸瓦斯株式会社を創立し、炭酸瓦斯を液化する新事業を展開した。'38(S13)足立区青井に移転。 ミニガスカートリッジ(小型高圧ガス入り容器)の用途はどんどん広がり、清涼飲料のサイダーやラムネ、外麦酒の製造、氷の製造、物品の冷蔵、薬品の製造(主にサルチル酸及び顔料)、火薬の製造、砲弾の冷蔵や医療上にも使用され、現在では、飲料(炭酸水製造器、生ビール注出器)、防災(消火器、ライフジャケット、酸素補給マスク)、長野五輪での聖火トーチや、東京ドームでの生ビール注出システムなどにまで広がりを見せ、ミニガスカートリッジのトップシェアを継続している。
 早稲田大学理工科の講師としても後進の指導にあたった。享年60歳。

<報知新聞 1917.8.23(T6)など>


墓所

*墓石は和型「小穴家之墓」。右側に墓誌があり、戒名は圓照院殿釋秀命居士。妻は志づ。妻はカトリックでマリアと刻む。長男の秀雄は早死したため、次男の秀治(S62.7.5没)が継ぐ。


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