青森県弘前市出身。石坂忠次郎、トメの二男として生まれる。小学生時代は病気ばかりしている虚弱児童で本を読むことを好んだ。高学年になると友人とコンニャク版で雑誌をつくっている。旧制弘前中学校では懸賞俳句や創作を投稿し入賞した。1918(T7)慶應義塾大学を受験したが失敗し、1年間東京予備校に通い、翌年合格。
1919(T8)慶應義塾大学文学部予科に入学。'21.11.11 帰省中に出会った同郷の今井うら(同墓)と結婚。この時、洋次郎は21歳、うらは横浜聖書学院に通っていた17歳であった。授業よりも小説の創作活動に打ち込み、同級生と同人雑誌をつくる。'25 文学部仏文科('21)に進学したが国文科('22)に移籍し大学を卒業。早すぎる学生結婚に加え、'23 長男の信一(同墓)、'25 長女の広子が誕生し経済的基盤が必要であったため、卒業後は、郷里の青森県に戻り、弘前高等女学校で国語の先生として奉職。翌年より秋田県立横手高等女学校から更に県立横手中学校へ転任した。なお、'27 二女の朝子(同墓)が誕生。
教師をしながらも創作は続け、'27(S2)処女作『海をみに行く』を発表。主に発表の舞台を「三田文学」とし、以降も『炉辺夜話』 (1927) 、『キャンベル夫人訪問記』(1928)、『外交員』 (1929) 、『金魚』 (1933)と発表。'33 青春小説『若い人』が第一回三田文学賞を受賞した。出来るだけ一般の人々を喜ばせることを目的として描き、その描き方が石坂文学として定着していくことになる。
'36『麦死なず』は知識人たちを捉えた左翼運動がはらんだ問題性を、私生活に密着した姿勢で批判して問題を投じ好評を得た。'37 先に発表していた『若い人』がベストセラーとなり映画化される。ところが右翼団体から不敬罪などで告訴され、14年間奉職した教員を辞職した。'38 右翼団体との問題は不起訴となり、これを機に、'39 上京。執筆活動に専念するため『何処へ』(1939)などを発表したが、次第に戦争の色が濃くなり自由に書くことが難しくなっていった。戦時中は陸軍報道班員としてフィリピンに派遣される。
戦後、'47 初めての新聞小説『青い山脈』を「朝日新聞」に連載。古い習俗から解放された素朴で健康な青春の賛歌を綴ったこの作品は、今井正監督により映画化にもされて、一世を風靡し一躍流行作家になる。また藤山一郎が歌った主題歌『青い山脈』(作詞:西條八十、作曲:服部良一)は現代でも歌われる国民的歌となった。
'48 郷里を取材し土着的なエロチシズムのあふれる地方庶民生活を描いた『石中先生行状記』もヒットした。その後、『丘は花ざかり』(1952)、『山と川のある町』(1956)、『陽のあたる坂道』(1956-57)、『あじさいの歌』(1958-59)、『河のほとり』(1961)、『光る海』(1963)など庶民的明るさと正義感を持つ作品を次々と新聞小説として発表し、映像化された作品も多い。『水で書かれた物語』 (1965) は異常な近親相姦を扱い主題の深刻さが注目された。これら「青春もの」といわれる諸作品は、無遠慮な口をきくが、相手に毒を感じさせない人物を登場させ、露骨でありながら、不潔感を抱かせない性描写を含む、という点で共通する。
'66.8 復刊した「三田文学」の三田文学会会長となる。同.11 「健全な常識に立ち明快な作品を書きつづけた功績」が評価されて第14回菊池寛賞を受賞。しかし石坂自身は「健全な作家」というレッテルに反撥(はんぱつ)し、受賞パーティの席上で「私は私の作品が健全で常識的であるという理由で、今回の受賞に与ったのであるが、見た目に美しいバラの花も暗いじめじめした地中に根を匍(は)わせているように、私の作品の地盤も案外陰湿なところにありそうだ、ということである。きれいな乾いたサラサラした砂地ではどんな花も育たない」と語る。'67より直木賞選考委員となる。
'71.8.18 妻の うら が亡くなる。同.11『亡き妻うらを偲ぶ』を小説新潮に発表。翌.3 多磨霊園に墓石を建立。妻が亡くなってから執筆意欲を失い、当時連載していた作品を最後に執筆活動から遠ざかる。以後は、旧作の改訂や回顧録、随筆などエッセイを書くようになり、'76 朝日新聞に「老いらくの記」を隔週連載した。この間、'74 弘前市、'76 横手市に文学碑が建立されている。
'78年頃より認知症の症状が出始め、長年住み慣れた田園調布の地を離れて、静岡県伊東市に転居し療養しながら余生を過ごす。享年86歳。
<コンサイス日本人名事典> <日本大百科全書> <ブリタニカ国際大百科事典> <青森県近代文学館 石坂洋次郎展プロフィール> <青森県立図書館など>
*墓石は洋型「石坂家」、裏面「昭和四十七年三月 石坂洋次郎 建之」。妻の石坂うらが亡くなった七か月後にこの墓石にしたことがわかる(元々昭和六年に五歳で亡くなった二女の朝子が眠る墓石が建っていたと推測する)。
*墓所右側に墓誌が建ち、洋次郎とうらの娘(二女)の朝子(T14.8-S6.7.19歿・行年5才)から刻みが始まる。妻の うら(S46.8.18歿・行年68才:九品院殿法譽清明大姉)。洋次郎の戒名は一乗院殿隆誉洋潤居士。行年は87才。長男の石坂信一(T12.4-H22.3.13歿・行年86才)が刻む。2000(H12) 石坂信一は『父の思い出』(シリーズ名:特修 石坂洋次郎の世界;石坂洋次郎をめぐって)を刊行している。
*戸籍上の生年月日は、明治33年7月27日であるようだ。
*郷里の青森県弘前市新寺町の貞昌寺に分骨されている。
第127回 青春小説の巨匠 石坂洋次郎 お墓ツアー 健全な作家というレッテルに反撥 青い山脈
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