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いしい ひろお

石井啓雄

いしい ひろお

1931.8.19(昭和6)〜 2010.4.10(平成22)

昭和・平成期の農林省官僚、
農業経済政策学者

埋葬場所: 4区 1種 55側

 東京府豊多摩郡杉並町(東京都杉並区)出身。1956(S31)東北大学農学部畜産学科卒業。'58農林省に入省。農林経済局統計調査部農林統計課に配属され、農林技官として活動。 以後、21年間在職する内、16年間を農地改革の成果を引き継ぐセクションであった農地局農地課(構造改善局農政課)で過ごす。'73価格保障の研究で農学博士号を取得(東北大学)。
 アテネ・フランセに通いフランス語をマスターし、スイス農業政策研究の第一人者となった。さらに実名のほか、数々のペンネームを駆使して、戦闘的で誠実な論考を発表し続けた。 '78農林水産省を退職し、駒澤大学経済学部教授に就任。耕す者が自ら農地を所有する原則に貫かれた農地改革の意義と、その成果を厳守する農地法の重要性を教授。日本の農地改革や経済政策論を研究した。'91(H3)駒澤大学経済学部部長(〜'93)。
 土地制度史学会理事・評議員、日本農業法学会理事、日本土地法学会評議員、農政調査会理事・評議員・主任研究員、農地制度史料編纂委員(農政調査会)、『農政と公務労働』編集委員、農林水産九条の会・呼びかけ人などを務めた。 2002(H14)停年退官。名誉教授となった。著書に『日本農業の再生と家族経営・農地制度』、共著に『国土利用と農地問題』『工業化社会の農地問題』などがある。3度の癌に見舞われながらも、寄稿や学習会の講師を務めた。心筋梗塞のため自宅で逝去。享年78歳。

<新聞「農民」2010.5.3号>
<執筆図書の著者略歴や訃報記事など>


墓所

*墓石は洋型「石井」。左側に墓誌がある。俗名・没年月日・行年が刻む。


【富士山遭難事故】
 弟の石井宏正(同墓)は日本大学山岳部に所属し、1年生の時、1954.11.28(S29)富士山合宿に参加中、雪崩で遭難死(享年20歳)した。この事故は八甲田山雪中行軍遭難事件など軍隊の訓練を別とした当時の日本登山史上最大の惨事とされ、救助・捜索活動はマスコミも連日報道し、大きな社会問題になった。
 午前10時40分頃、富士山吉田大沢に大規模な雪崩が発生し、夏道七合目下から大沢にトラバースしようとしていた東大スキー山岳部11名中5名、六合三勺小屋付近を登高中の慶応医学部山岳部3名中2名、鎌岩尾根から夏道を下降中の日大山岳部24名中8名の合計15名が死亡・行方不明となった。翌年6月まで捜索が行われ、捜索人員は延べ3181人にのぼった。
 1955.9、父の石井辰五郎(郎の字は郎の右側が「おおざと」ではなく「口」の下に「巴」・同墓)が石井宏正思い出文集『石井宏正によせる』を刊行。大学OBや現役生の共同編集の遭難の追悼集『富士に眠る仲間へ』が遭難一周忌に発刊された。これは単に追悼集に終わるのではなく、今回の雪崩の考察や捜索の経過を詳細にまとめ編集され、冬富士を志す登山者にとって参考になる必読書となった。2002(H14)遭難当時の部員を中心に富士山遭難五十回忌の法要が行われた。
 上記の登山遭難事故は当時最大人数が犠牲となった惨事であったが、その後、1972.3.19-20富士山を下山中の登山者を雪崩が襲い、18人死亡、6人が行方不明となった大惨事が発生した。富士山以外では、1991、93 合わせて44人の死者・行方不明者を出した雲仙・普賢岳(長崎県)の火砕流被害事故。そして、2014.9.27(H26)御嶽山(長野県・岐阜県境、標高3067メートル)の突然の噴火による死者56人、行方不明者7人(2014.10.16現在)が日本登山史上最大の惨事である。

<「日本大学山岳部八十年の歩み」など>


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