広島県出身。石黒清左衛門の五男として生まれる。1910(M43)東京帝国大学法科法律科を卒業し、文官高等試験に合格、官界に入る。
文部・内務名属。秋田・群馬各県理事官を経て、朝鮮総督府事務官、内務局地方課長を歴任。朝鮮警察部長時代は朝鮮人を徹底的に弾圧。
'23(T12)官命によってヨーロッパ、アメリカの各国に出張する。帰国後、台湾総督府文教局長、同内務局長。
朝鮮・台湾と当時の日本の植民地生活を12年続けたもので、軍官僚ファシズムの波にのってトントン拍子に出世した。
『君は筧博士の高弟として神ながらの大道を奉じ弥栄の精神家として思想の堅忍不抜、態度の荘重、軍官人の規範たるものあり』と称えられた。
'31(S6)5月に第19代奈良県知事に就任(任期:1931.5.5〜12.18)。次いで、第19代岩手県知事に着任(任期:1931.12.18〜1937.6.5)した。
岩手県知事赴任直後は東北一帯に大凶作が発生した('34も大凶作に見舞われた)。石黒は各地を視察し、自身によっていろいろ聞き取り調査をした。
二戸郡小鳥谷(こずや)村の視察の際に、病気のときは売薬のトヤマ薬を飲むしかないという村の実態を知って、石黒をはじめ同行した新聞記者一同驚き、医療のあまりのひどさを知り、このことを書き立てたところ全国から医薬品が大量に送られてきたというエピソードがある。
'31の大凶作を経験した岩手県出身の宮沢賢治はその時の苦しさを詩にしたためた。これが「雨ニモ負ケズ」である。
1932.9.2金ヶ崎町六原の陸軍軍馬補充部支部跡地に県立六原青年道場を設立。皇国精神・軍国主義推進の拠点となる。
'33(S8)3月3日には三陸海岸地震大津波が発生し、死者・行方不明者3,064名の大惨事が起きた。
石黒は被災地視察に各地に赴いた際、一丸となって復興に当たる田野畑村民の姿に心を打たれ、短歌を詠んだ。
「陸と海 住む里字は ことなれと 伊乃ち(注・いのち)かよえり 同し村ひと」。石黒の岩手県知事時には二度の大凶作と大津波被災の自然の猛威が襲い、その復興に尽力した。
'37 第23代北海道庁長官に任命(任期:1937.6.5〜1938.12.23)された。'38北海道神宮内に開拓神社を設立し、また開催を予定していた札幌オリンピック実行委員会を設置(1940冬季五輪を予定していたが戦争のため返上)。
同.12.24文部次官に就任。'39.9退官。'42.6〜'43.10大政翼賛会練成局長を務めた。正4位勲2等。享年61歳。
<日本歴代知事総覧> <岩手日報2003年3月3日> <代々木の社など>
【三陸地震大津波】
1933.3.3(S8)午前2時30分 約30分後に津波来襲。
三陸沖日本海溝付近を震源とするマグニチュード8.1の地震により、死者・行方不明者3,064名、家屋流失4,034、倒壊1,817。
特に岩手県田老村田老では、人口1,798人のうち死者763人(42%)、戸数362のうち358軒が流失。
『中央気象台で地震を記録したのは、午前二時三十二分十四秒であった。三月三日といえば春の気配もわずかに感じられる頃だが、東北地方の三陸沿岸は積雪が大地をおおう厳寒の中にあった。
中央気象台の記録によると、その時刻の気温は零下十度近くをしめしている。天候は晴れで、夜空には凍てついたような星が光っていた。
三陸沿岸を襲った地震は強烈で、人々は、夜の眠りを破られて飛び起きた。
家屋は激しく振動し、時計はとまり棚の上にのせられていたものは音を立てて落下した。壁が剥落し、障子の破れた家もあった。
また、池や沼を厚くおおっていた氷や積もった雪にも割れ目が生じ、町の水道管は破損した。強震に驚いた人々は、家から走り出た。
震動時間は五分から十分間続き、水平動であった。戸外はむろんのこと家の中も凍りつくような寒さであった。
人々は歯列を鳴らして身をふるわせ、震動がやむと再びふとんの中にもぐりこんだ。地震の後には津波のやってくる可能性がある。
しかし、三陸沿岸の住民には、一つの言い伝えがあった。それは、冬季と晴天の日には津波の来襲がないということであった。
その折も多くの老人たちが、「天候は晴れているし、冬だから津波は来ない」と断言し、それを信じたほとんどの人は再び眠りの中に落ち込んでいった。しかし、その頃、海上は急激にその様相を変えていた。
海水が徐々に干きはじめ、それにつれて沿岸の川の水は激流のように飛沫をあげて走り、海に吸われていた。
海水の干く速度は急激に増し、湾内の岩や石が生き物のように海水とともに沖に向かって転がりはじめた。
岩は激突し合いながらすさまじい音響を立てて移動してゆく。たちまちに、湾内の海底は干潟のように広々と露出した。
沖合いに海水と岩の群れをまくし上げた海面は、不気味に盛り上がった。
そして、壮大な水の壁となると、初めはゆっくりと、やがて速度を増して海岸へと突進しはじめた。
壁は海岸に近づくにつれてせり上がり、一斉にくだけた。家々には、地震で起きた人々の手でともされた灯が点々とつらなっていた。
屹立した津波が、周囲を水煙でかすませながら部落の上に落下し、たちまちにして灯は絶えた。
家は水圧で粉砕され、人の体とともに激しく泡立つ海水に巻き込まれ、やがてそれは勢いよく干きはじめた海水に乗って沖へと引きさらわれていった。
海水は、再び海底を露出させ沖合いで体勢をととのえるように盛り上がると、第一波より一段とすさまじい速さで海岸へと進んだ。』
*三陸はるか沖合いの日本海溝付近を震源とする大地震は、三陸地域沿岸にきわめて重大な損害を生じる津波を起こすことで知られています。
昭和8年以外にも、明治29年の津波では死者22565。
昭和35年南米チリ沖に発生した地震による津波が太平洋を横断し、北海道南岸、三陸沿岸、志摩半島付近を直撃した際には、死者109人、行方不明20人、家屋全壊1571件を出した。
チリ地震津波以後、地震津波対策として各地で防潮堤が造られるようになった。
以後、日本国は地震と津波を密接に関連づけ、その教訓を現在でも引継ぎ対策を強化している。
2004年12月26日に発生したスマトラ沖地震による被災国12カ国(約12万3千人の死者)を襲ったインド洋津波は記憶に新しいところです。
※2011.3.11(H23)太平洋三陸沖を震源として「東日本大震災」が発生し、それに伴い大津波が襲った。
この地震は、日本における観測史上最大規模マグニチュード (Mw) 9.0を記録し、最大震度は7で、震源域は岩手県沖から茨城県沖までの南北約500km、東西約200kmの広範囲に及んだ。
その後、大津波が発生し、波高10m以上、最大遡上高40.1mにも上り、内陸6kmまで浸水、建物27万戸以上が全半壊、東北地方と関東地方の太平洋沿岸部に壊滅的な被害をもたらした。
この津波により、東京電力福島第一原子力発電所では、全電源を喪失して原子炉を冷却できなくなり、大量の放射性物質の漏洩を伴う重大な原子力事故に発展した。
この地震で15,857人の命が失われ、3,057人が行方不明、6,029人が負傷、総計24,943人(2012年4月現在)の人的被害を受けた。亡くなられた92.5%(12,143人)が水死であった。ご冥福をお祈り致します。
*墓石は和型「石黒家之墓」。右側に墓誌がある。墓誌には「従三位 勲二等旭日重光章 石黒英彦之命」と刻む。妻は万千代。息子の石黒威次郎は陸軍大尉で戦死。娘は内務省官僚で池田勇人内閣の内閣官房副長官を務めた細谷喜一に嫁いだ。
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