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いまいずみ たけじ

今泉武治

いまいずみ たけじ

1905.9.23(明治38)〜 1995.10.29(平成7)

昭和期の広告デザイナー、広告理論家

埋葬場所: 13区 1種 5側

 福島県出身。今泉安蔵の三男。1930(S5)明治大学商学部卒業。学生時代は広告研究会幹事を務めた。森永製菓広告課に入り、キャンペーンガールを起用して画期的な宣伝とイベントを行い貢献した。その企画力が戦前の陸軍の情報局の目に止まり、プロパガンダ的な報道機関「報道技術研究会」(報研)の立ち上げへの尽力につながった。
 戦時中の報道技術研究会の具体的な活動内容については、戦後しばらくはほとんど知られていなかったが、報研の中心メンバーであった今泉武治、新井静一郎(後の電通常務・日本広告技術協議会会長)、山名文夫(日本のグラフィックデザインの黎明期における先駆者の一人)などが編者となって、'78(S53)ダヴィッド社から『戦争と宣伝技術者──報道技術研究会の記録』が刊行され、その全体像が明らかにされた。報研の構想は今泉と新井が昭和15年8月下旬頃より話し合いがもたれた。新井が「手弁当でも公的な仕事に奉仕しよう。拡大した研究会組織を持ちたい」と話し、今泉が「グループは技術へ分化の上の統合で、既成の図案団体を超克した形でつくりたい。名称も宣伝広告ではなく、国家的社会的統合原理から出発すべきだ」と主張し、名称も今泉の強い主張で「報道技術研究会」(後に「報道技術研究所」)と決まり、11月に結成された。昭和20年8月15日の敗戦の日に解散。
 戦後は丸見屋(ミツワ石鹸)宣伝部に入る。アートディレクターとコピーライターが組んで一つの広告を作るというスタイルを確立させ、第一回朝日広告賞で選外一(準グランプリ)に輝いた。広告とデザイン、経営(マネジメントとマーケティング)と芸術(アート)を統合しようとした「アートディレクター」の必要性を戦前より論じており、'52東京アートディレクターズクラブ(東京ADC)発足、評議員となった。
 '59(S34)博報堂取締役に転任。'62取締役調査局長として「広告は美しいばかりでなく、科学的でなければなりません。 広告を科学的に進めていくための基礎材料を作るのが、調査局の仕事です。調査とひと口にいっても、無限にひろい間口がありますし広告主からの依頼調査もたくさんもってい ます。今年から、いままで調査部一本であったものを広告調査部・市場調査部・資料部 の三部にわけ、これを統合してゆく新しい局として発足しました。」と抱負を述べている。日本でまだ開拓されていなかった機械測定による心理実験テストやコピーテストを開拓したり、外部専門学者の協力による研究室や、調査技術の原理的な開発と実験を行う企画室を設けるなど、博報堂の広告部門の中興の祖として活躍した。
 '60日本広告主協会、日本民間放送連盟、日本広告業協会の3団体により「CM合同研究会」(Allied CM Council:略称ACC:現在の一般社団法人全日本シーエム放送連盟)が発足。今泉は設立提唱者として尽力し、翌年から始まった第一回CMフェスティバル以来、毎年審査委員長を務め、CMの資質向上のために大きな貢献を果たした。'64CMの歴史とともに歩み、その発展に寄与した功績でACC会長賞を贈られた。'65正力賞、'67第5回全広連衣笠賞など受賞多数。
 '68〜'72日東エージェンシー副社長に就任。東京広告協会顧問のほか日本広告写真家協会顧問などを務めた。この他、「JAAAリポート」(56年4月号〜58年3月号)に「クリエイティブ昭和史」を連載。広告の理論と技術について多くの新知見を発表しその向上開発に大きく貢献した。享年90歳。

<20世紀日本人名事典>
<広告史研究の現状と課題:難波功士 など>


墓所

*墓石は和型「今泉家之墓」。右側に墓誌がある。戒名は芳雲院武陽浄輝居士。妻は佐和子。墓所には武治の父の安蔵、母の満壽、長男の英太郎(1歳で早死)、二男の一路(享年33歳)、四男の光三、五男の行五郎(1歳で早死)、二女の小川ワカ、武治の長男の道夫と妻の文子が眠る。

*父の今泉安蔵(S13.2.4 行年66才:儀右衛門4男)は、1936(S11)今泉廻転式「世界時刻速知地図」を発明した人物と推測する。


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