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いいたか よういち

飯高洋一

いいたか よういち

1927.10.15(昭和2)〜 2006.4.1(平成18)

昭和・平成期の製薬化学者、構造生物学者

埋葬場所: 19区 1種 27側

 山梨県出身。1951(S26)東京大学理学部卒業し、大学院理学系研究科に進学、研究奨学生に採用され、'54前期を修了後、東京大学理学部助手に採用された。'59.1理学博士。 同.6〜'61.9スイスおよび英国へ出張。帰国後、東京大学薬学部助教授に着任。'67教授となり、製薬化学科を担任する。'88停年退官、東京大学名誉教授。
 東京大学においては、薬学部・薬学系研究科における教育および研究に加えて、理学系研究科の教育も担当され、評議員、教育用計算機センター長、大型計算機センター長を歴任して、東京大学の運営と発展に寄与。 更に、文部省高エネルギー物理学研究所教授を併任、同研究所放射光実験施設協議会委員、大阪大学蛋白質研究所運営協議会委員、文部省学術情報センター運営協議員なども歴任され、これら機関の運営と発展にも貢献した。
 '88退官後は帝京大学医学部教授に就任、帝京大学薬学部教授、西東京科学大学理工学部教授なども歴任。'97(H9)帝京科学大学を停年退職し、名誉教授。
 長年にわたり主として結晶学および構造科学に関する教育と研究に努められ、薬学、結晶学のみならず化学、生化学、生物物理学などの関連諸分野の研究に多大な貢献をなした。 無機化合物と鉱物の構造研究を経て物質の三次元構造の研究にX線結晶学を導入し、複雑、多岐かつ多数にわたる天然有機化合物、抗生物質、さらにはタンパク質などの構造研究を展開した。
 研究では、X線回折計の開発と電子計算機のハードウエアとソフトウエアの開発と利用にも早くから着手し、我国におけるその後の電子計算機システムと情報科学の発展の礎を築かれ、構造科学、計算機科学、情報科学などいずれの分野においても先駆的な役割を果たした。 研究では、まず基本的なアミノ酸であるグリシンについて、1954結晶多型を発見、X線回折法によりβ型とγ型の結晶構造を解析された。 その後、X線回折法と分光学的な手法を駆使し、バリンなどのアミノ酸類、ペプチドや核酸の結晶構造の解明研究を広く展開、アミノ酸の関連物質の変異原性化合物についても先駆的な構造研究をなした。 天然有機化合物に関しては、エンメイン、シッカニン、サポゲニンをはじめとして、150を越える化合物の結晶構造をX線結晶構造解析法により解明。 我国で発見された抗生物質であるカスガマイシンの構造の解明に成功後、フォルマイシン、カナマイシン、制癌剤として使用されているブレオマイシンなど約50種の抗生物質の構造を解明し、その合成や医薬創製を可能とした。 テトラサイクリンなどの100を越える医薬品関連化合物、ナクチン類や包摂化合物の研究も行い、医薬品のコンフォメーション解析と分子設計の手法開発の端緒も切り拓いた。
 タンパク質の三次元構造に基づく作用機構の解明を目指し、インターフェロンなどの結晶学的な研究を進め、タンパク質分解酵素の阻害タンパク質ストレプトミセス・サブチリシン・インヒビター、および、そのサブチリシンとの酵素複合体の結晶構造の解析を成功させた。 研究を微生物由来のリボヌクレアーゼなどにも展開し、タンパク質の機能や分子進化に関する新知見を与え、我国における構造生物学研究の先駆者として活躍。 これら一連の研究業績は、国内外で高く評価され、X線解析による医薬品の分子構造ならびに結晶構造の決定により、宮田専治学術振興会学術奨励賞。X線解析法による医薬品類の構造決定とそのシステムの確立により日本薬学会学術賞が授与された。 このような電子計算機と解析プログラムに関わる活動は、全国大学共同利用の大型計算機センターやシンクロトロン放射光実験施設の設置と運営など、結晶学とその関連分野の発展にも広がった。
 日本学術会議結晶学研究連絡委員会委員、日本学術会議専門委員、文部省学術情報センター・データベース委員会委員、国立国会図書館科学技術関係資料整備審議会委員なども歴任、日本結晶学会の評議員と会長を務め、結晶学、構造科学と情報科学の進展に尽くした。 誤燕性肺炎のため逝去。享年78歳。没後、従4位、瑞宝中綬章の叙位叙勲を賜る。通夜は親族のみで執り行われ、4月6日に葬儀を新宿区四谷たちばな会館で営まれた。

<東京大学院薬学系研究科 訃報記事>


*墓石は洋型「飯高家の墓」。墓誌があり、飯高洋一の生没年月日が刻む。


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