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いいだ しんすけ

飯田信助

いいだ しんすけ

1888(明治21)〜 1967.2.2(昭和42)

大正・昭和期の実業家(飯田百貨店)、政治家

埋葬場所: 7区 1種 15側

 福井県大野市本町通り出身。矢出兵三郎の次男として生まれる。旧姓は矢出。飯田吉蔵の養子となる。
 1919(T8)兄を頼って上京し、東京市本郷区駒込神明町にて青物店を開業し、青果の行商を始める。'24 滝野川区田端に移転。田端銀座商店会を結成。'34(S9)合資会社飯田百貨店を設立。王子・上十条に百貨店支店を設ける。'36株式会社に改組。青果業者の連合会長などを務める。'40 区会議員に当選し、以降7年間区政に参出。'44 戦災により止む無く休業。
 '45 終戦後、北区(滝野川区)にて事業の立て直しに取り掛かり、翌年より飯田百貨店(滝野川店)再開。'48.1.27 株式会社に改組し「株式会社飯田百貨店」設立して事業を本格化させる。借入金無しの無借金経営で堅調に業績を伸ばし店舗を増やしていった。同時期に陸上競技部をスタートさせ、飯田百貨店陸上部をサポート。'62 埼玉県入間に飯田百貨店総合グラウンドをつくる。この間、'50 北区議会議員に当選し1期つとめる。
 青物店開業から、無借金経営で利益は社員へ還元という姿勢を一貫。'59 長男の飯田信太郎(同墓)が2代目社長に就任させて退く。2代目以降、創業100年を超えた現在も、無借金による健全経営を継続している。なお、飯田百貨店は、'97(H9)社名と店舗名を「コモディイイダ」に変更。陸上部も「コモディイイダ陸上部」と変更し現在に至る。
 2代目となった飯田信太郎は、父が果たせなかった遺志を生かすために、経済的理由で修学が困難な学生に対して育英奨学の事業を行う「公益財団法人 飯田育英財団」を設立した。また信太郎は馬主としても活動した。

<コモディイイダ 沿革>
<墓所内 飯田信助碑石より>


墓所

*墓所内に和型墓石が三基建つ。真ん中墓石は「飯田信助墓」、右側が「飯田家之墓」、左側が「飯田縁家之墓」。3基とも裏面「昭和十八年三月十八日 飯田信助建之」と刻み、同時に建之し、飯田信助自身の墓も生前建墓したことがわかる。「飯田信助墓」の右面が墓誌となっている。戒名は常勤院殿釋信誓行願大居士。行年は80歳と刻む。妻はしゅん(H5.1.6歿 行年97才)。「飯田家之墓」の左面が墓誌となっており、飯田信太郎と妻の孝江が刻む。信太郎の戒名は普照院釋積徳信行大居士(H2.12.23歿 行年63才)。妻は孝江(S40.9.8歿 行年38才)。「飯田縁家之墓」の左右面は墓誌となっており飯田姓以外の方々の刻みがある。墓所には右側に「飯田信助墓誌碑」が建ち略歴功績が刻む。この碑は「昭和四十年十月吉日」建之。墓所左側に飯田家代々の墓誌も建つ。飯田信助には「株式会社飯田百貨店 初代」、信太郎には「株式会社飯田百貨店 二代」と刻む。


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