メイン » » » 井田友平
いだ ともへい

井田友平

いだ ともへい

1889.3.17(明治22)〜 1965.10.31(昭和40)

大正・昭和期の実業家
(メヌマポマードの創始者)、政治家

埋葬場所: 9区 1種 1側

 埼玉県幡羅郡弥藤吾村新田(大里郡妻沼町大字弥藤吾:熊谷市大字弥藤吾)出身。農家の井田定吉、フク(共に同墓)の長男として生まれる。家業を手伝いながら苦学するも、父の事業の失敗で土地家屋を失う。そのため中学校に進学できず、上江袋能泉寺塾で漢学などを修めた。
 17歳の春に上京し、石鹸雑貨商の見習いとなり、1910(M43)独立。東京本所緑町に井田京栄堂を創業して石鹸雑貨卸商を始めた。日夜行商に精を出す傍らで、当時まだ輸入品で高級であったポマードを国産品として売り出すために開発を行う。輸入品のポマードは鉱物性調髪油であったためベタツキ感が強く不評であった。そこで純植物性の調髪油に注目。'17(T6)純植物性の「メヌマポマード」の開発に成功。本所緑町に化粧品製造工場を建設し、低価格で販売。ベタツキはなく、サラリとしたつけ心地で人気を博し大盛況。
 '23(T12)関東大震災で工場が被災したが、メヌマポマードの愛好家が地方に疎開したことで全国的に広まったことから製造再開。'24 井田京栄堂卸部を弟の幸八郎の井田両国堂に委譲。一時、75%の国内シェアを占め「ポマード王」の異名をとった。'41紺綬褒章受章。
 '45 東京大空襲で店舗と工場を焼失。'46 千代田区富士見に仮営業所で生産を再開。全国に代理店制度を設けた。'48 株式会社メヌマに改組し、取締役社長に就任した。海外輸出も開始。民放テレビ開局当初では服部時計店(セイコー)に次ぐ、第2号CM提供を行った。'52 東京都化粧品工業会長に就任。
 一方で事業の傍ら政界にも進出。'30(S5)本所区会議員となり、'34同区会議長になる。その間、'33 東京都会議員を3期務め、'44同参事会員、'45警視庁警務委員長を歴任した。
 戦後、'46.4.10 男女普通選挙制度が初めて採用された第22回衆議院議員総選挙に日本自由党公認で郷里の埼玉県第三区に出馬し当選(1期)。
 居は東京に構えていたが、郷里の埼玉県妻沼(めぬま)への思い入れは強く、メヌマポマードの商品名や社名に使用。'57 郷里の居宅を妻沼町に寄付。'60 石造書庫を役場に寄付。'64 私財1億円を拠出し財団法人井田育成会を設立して、郷里の育英に力を注ぎ、多くの奨学生を支えた。これらの功績が讃えられ、聖天山境内に井田友平先生頌徳碑が建立(1957)され、寄付された居宅は井田記念館として整備され胸像も建つ。'59 妻沼町は名誉町民条例を制定し、翌年、全会一致で推挙され、井田友平は名誉町民第一号に認定された。
 '65.3 脳血栓で倒れる。同.5.17 勲4等瑞宝章受章。同.10.31 逝去。享年76歳。従5位追贈。なお郷土かるた「い」は『井田友平メマヌポマードで名を広め』。

<日本人名大辞典>
<講談社日本人名大辞典>
<熊谷デジタルミュージアム「井田友平」など>


*墓石は和型「井田家先祖代々之墓」、裏面「昭和三十七年七月建之 施主 井田友平」。右側に墓誌があり、戒名は髙顕院殿祥徳日友大居士。


関連リンク:



| メイン | 著名人リスト・あ行 | 区別リスト |
このページに掲載されている文章および画像、その他全ての無許可転載を禁止します。