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いちかわ しのぶ

市川 忍

いちかわ しのぶ

1897.1.9(明治30)〜 1973.11.2(昭和48)

昭和期の実業家(丸紅)

埋葬場所: 26区 1種 26側

 茨城県布川出身。神戸高商(神戸大学)卒業。1918(T7)就職先を探しているとき、熱心だった繊維商社の伊藤忠商事に興味を持ち入社試験を受ける。呼び出された場所が神戸の布引の料理屋「三宅」であり、三十代前半にして若手関西財界人として異彩を放っていた伊藤忠商事初代社長の伊藤忠兵衛がきた。一流料亭で入社試験をやる奇抜なアイデアといい、とてつもなくスケールの大きな人のように思え、ぞっこん惚れ込んでしまったと、市川は当時の事を回想している。
 伊藤忠商事に入社した時は、第一次世界大戦の影響で好景気に沸いていた。しかし、1920.3 戦争景気の反動で、株式や商品など取引所の大暴落が起こる。伊藤忠商事が取り扱っていた生糸や絹織物の何もかもが値下がりに次ぐ値下がりで会社が大ピンチになった。そこで伊藤忠兵衛社長は、貿易部門を分離して別会社にした。マニラ、ニューヨーク、シアトル、ロンドン、カルカッタ、スラバヤの伊藤忠各出張所を受け持って新会社の大同貿易がスタートする。伊藤忠商事の横浜支店勤務をしていた市川ら含む全員が大同貿易に移ることになる。
 '21 伊藤忠商店と、忠兵衛の兄の長兵衛が創業した呉服卸商店の伊藤長兵衛商店が合併し、株式会社丸紅商店が設立される。後に市川は大同貿易から、この旧 丸紅商店に移る。第二次世界大戦中には伊藤忠商事や呉羽紡績と合併し三興となり、のちに大建産業となった。市川もこの流れにより大建産業に勤務した。
 戦後、大建産業の会長を務めていた伊藤竹之助から、解体された場合、旧丸紅商店の社長に就任してくれと言われる。1949.12.1(S24)大建産業はGHQの過度経済力集中排除法の適用に従い解体されることになる。解体の話し合いの際に、大建産業は呉羽紡績と尼崎製釘所を製造部門として吸収していたため、単純に分離独立させることに異論はなかった。問題は主力の商事部門をどうするかであり、旧伊藤忠系、旧丸紅系、旧大同貿易系の3分割案に落ち着き、伊藤忠は小菅宇一郎、丸紅は市川、大同貿易は森長英(26-1-33)がそれぞれ社長に就任することになった。ところが丸紅は内地取引や管理部門に強く、大同貿易は外国貿易に強いが内地の商売に疎い。丸紅と大同貿易がひとつになれば強力な会社になると、大同貿易の森社長との意見が一致し、丸紅に納まった。
 結果的に大建産業の解体は4社(伊藤忠商事、丸紅、呉羽紡績、尼崎製釘所)に分割された。新しい丸紅株式会社として設立され、初代社長に就任。なお、伊藤忠兵衛を初代として創業した旧丸紅を含めると市川は4代目となる。市川は新しく出発する丸紅の社是を「正・新・和」とし、「丸紅」発展の基礎を築いていく。
 '55 貿易会社の高島屋飯田株式会社を吸収して繊維商社から総合商社の丸紅飯田株式会社に転換を果たし、引き続き社長を務めた。'64.5 社長を辞任。後任は後にロッキード事件の中心人物のひとりとなる檜山廣が就任している。なお、'72 より丸紅飯田株式会社は「丸紅株式会社」に変更し現在に至る。
 '66 市川は大阪商工会議所会頭に就任。'70.12「後進に道を譲りたいとして」同会頭職の辞意を表明し、翌年辞任した。享年76歳。

<私の履歴書「市川忍」など>


*墓石正面は「市川家先祖代々之墓」、裏面「昭和四十四年三月建之」。右面が墓誌となっており、妻の つる(S43.1.21歿)から始まり、市川忍が次に刻む。戒名は染香院釈忍徳。行年77才と刻む。墓所右側には洋型「高野家」の墓石も建つ。



第286回 丸紅 初代社長 市川忍 お墓ツアー


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