東京出身。戦後、国立病院外科で10年、麻酔科で30年を医師として活動。
登山、写真、飛行機、鉄道と多くの趣味をもち、その趣味を仕事に活用しようとした。例えば、航空機の運航チェックリストから麻酔の安全に欠かせない要項をチェックリストにし指導に役立てた。
また、患部だけでなく全身で診る麻酔科医として東洋医学に関心を持ち、鍼麻酔にも取り組んだ。それを歯科の抜歯に活かそうと試みたりもしたという。
国立相模原病院副院長。医学博士。晩年は、医師の経験をいかし障害者総合福祉施設である社会福祉法人アガベセンターのセンター長として奉仕活動を行った。
'34(S9)若山牧水の妻であり歌人である若山喜志子が審査員を務めていた雑誌「婦人の友」短歌蘭に、尚美の母が特選になったことから、尚美の母は喜志子に師事。
この縁で若山家との交流が生まれ、若山牧水の長男である歌人の若山旅人(1913-1998)や、その子供たちとも触れ合う機会ができた。
'58(S33)喜志子の強い薦めで、旅人・いく子の長女であり若山牧水の孫にあたる篁子(むらこ 1939-)と結婚。妻の篁子が若山牧水の直系の孫に当たることから、歌碑除幕式参列など、若山牧水との関わりが生じ、牧水会などにも参加して、日常の中に組み込まれていった。
若山牧水は歌人の中で最も多く歌碑が建立されている人物であり、今現在でも毎年どこかしらで歌碑が建立されるほど人気が衰えない歌人である。
その中で、尚美は歌碑調査の必要性を感じ、牧水歌碑の調査・研究を自らの足で調べた。1996(H8)牧水生誕111年を記念し『若山牧水歌碑インデックス』を篁子と共に発刊した。
また調査の際に撮影した全国の牧水歌碑写真の歌碑展を催したりもした。その後も、年々増える牧水歌碑の調査を続け会報誌などで発表した。享年82歳。
若山旅人が生前、尚美に向けた歌がある。「数知れぬ いのちを救ひ たまひきて たふとかりしよ 君がひと代は 旅人」
【尚美による若山牧水歌碑調査報告】
若山牧水(1885〜1928)は、43年の人生の中で8794首にも及ぶ短歌を詠み、詩情溢れる紀行文や随筆を残した。
2002.1(H14)現在で、尚美は「歌碑は269基、文学碑は9基、合計278基」の牧水碑の確認を発表した(現在も増え続けているため数は更に多くなっている)。
分布図は北は北海道から南は沖縄まで見られ、東日本に125基、西日本に144基が存在するとのこと。
牧水の出身地である宮崎県、特に出身学校(延岡高校)のある延岡市と、生家のある東郷町が最も多い。また、終焉の地である静岡県、妻の喜志子の生誕地の長野県、好んで歩いた群馬県にも多く歌碑が建立されている。
269基の歌碑に刻まれている歌は313首であるが、代表歌は重複しているものもあるため、歌碑に用いられた歌は218首とのこと。
なお、最初の牧水歌碑は、静岡県沼津市千本浜公園の「幾山河 こえさりゆかば 寂しさの はてなむ国ぞ けふも旅ゆく」の歌碑である。この歌の歌碑は全国に13基と最も多く刻まれている歌でもある。幾山河のヨミは「いくやまかわ」。
「旅の歌人」と称された若山牧水は全国各地を旅をして歌を作ってきたが、唯一、沖縄には行ったことがない。しかし、沖縄宜野湾市に「幾山河」の碑が建つ。
これは戦争中に東郷町へ疎開した学童が無事故郷へ戻れた、その縁で姉妹都市となり、坪谷川の石が送られて日本最南端の牧水歌碑になったというエピソードがある。
*若山牧水は1920(T9)一家をあげて沼津に引越し、晩年の9年間を過ごした。1981(S56)募金活動が始まり、集められた約6千万円の寄附金が沼津市に納められ、1987.11.1沼津市若山牧水記念館がオープンした。初代館長は牧水の高弟の大悟法利雄、第2代館長は牧水の長男の若山旅人、1998(H10)より旅人の長女、牧水の孫、尚美の妻である榎本篁子が第3代館長をつとめている。なお、榎本篁子は牧水の鑑定家も務め、未発表歌を発見している。
*若山牧水は静岡県沼津市にある浄運寺に眠る。戒名は古松院仙誉牧水居士。
*墓所は正面右に「河野家之墓」、左に洋型「旅」と刻む墓石。この墓石の裏面が墓誌となり、榎本尚美の俗名、没年月日、享年が刻む。平成二十一年二月吉日に榎本篁子建之。
墓所右手側に若山牧水の歌碑が建つ。「よりあひて ますぐにたてる あを竹の やぶのふかみに うぐひすの啼く 牧水」平成二十一年三月吉日に榎本篁子建立。
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