京都出身。浅田金吾の長男。幼名を泰治。1868(M1)家督を相続し、名前を徳則とした。
1868官界に入り、丹波久美浜・生野各県書記、大蔵省に出仕。
1874外務省一等書記生、二等書記官、外務省書記官から外務省取調局長、外務省公信局長、兼務し会計局長に昇進、1886外務省通商局長、1888弁理公使を務めた。
1889(M22)第15代神奈川県知事に就任した(1889.12.26〜1891.4.9)。この時代としては珍しく、8年半後の1898(M31)第18代神奈川県知事に再任した(1898.5.14〜1900.6.16)。
神奈川県知事における大きな仕事は、市制・町村制(施行に伴う町村合併は利害が対立して容易でなかった)の仕上げで、結果は県下一市二六町二九四村となった。
15代神奈川県知事後、1891(M24)第7代長野県知事となる(1891.4.9〜1896.2.6)。次いで、1896(M29)第7代新潟県知事に任命された(1896.2.6〜1897.4.7)。
その後、1897(M30)第9代広島県知事に就任した(1897.4.7〜1898.5.14)。
神奈川県知事に再任した後、外務総務長官、兼務し官房長、特命全権公使、1901逓信総務長官を歴任した。
'03貴族院議員(勅選議員)として同和会に属し、在任期間は1903.9(M36)〜1933.3(S8)で没するまで務めた。
また'07東京電力会社社長や、'20(T9)帝国蚕糸会社社長を務め、蚕糸業同業組合中央会特別職員、生産調査会委員等となる。
他に日本美術院創立にあたり名誉賛助会員。'06.4.1勲一等瑞宝章。正3位。享年84歳。
*墓所には三基並ぶ。右から「淺田徳則墓」、裏面「昭和八年三月三十日帰天」。「室 峯子墓」、裏面「大正十五年九月二十一日帰天」。蔵状の「浅田家」。墓所左側に墓誌が建つ。墓誌は浅田徳則から家督を継いだ二男の浅田振作(M18.2-S42.1.11)一族が刻む。振作は横浜正金銀行頭取席常勤取締役を務めた銀行家。振作の妻は綾(M23.7-S55.5.10:東京出身・旧姓は宮田)。6歳で逝去した長男の駿一(T13.9.2歿)。家督を継いだ二男の浅田英作(T13.10-H19.3.22)。
*浅田家は山城国伏見町の出にして代々医を業とした。浅田金吾の長男が「淺田德則」(旧字体)。妻の峯子(嘉永7.3-T15.9.21)は東京出身で旧姓は中川。浅田徳則と峯子の間には4男4女を儲ける。長男の浅田謙吉(M15.12生)。長女は早死。二女の みつ(M21.8生)は渡 正元の二男の渡 干城に嫁いだ。二男が浅田振作(M18.2-S42.1.11)。三男は浅田敬義(M18.2生)。四男は浅田泰輔(M23.8生)。三女は早死。四女の勝(M27.9生)は狩野宗三に嫁いだ。