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ありさわ とみたろう

有澤富太郎

ありさわ とみたろう

1875.12.24(明治8)〜 1944.4.10(昭和19)

明治・大正・昭和期の実業家(バテンレース)

埋葬場所: 6区 1種 16側

 新潟県高田善光寺町(上越市東本町)出身。織物卸業を営んでいた有澤栄吉(T11.1.11没)、貞子(T12.7.7没 共に同墓)の長男。東京共立学校卒業。父親の仕事を継ぎ、織物卸業に従事する。
 1892(M25)吉田寅八郎(吉田バテンレース)が製作を試み始めたバテンレースが、1898頃には高田の地域での冬期間に家の中で過ごす人たちの内職として取り入れられるようになる。しかし当時の材料のブレード(テープ)は輸入に頼っていたこともあり、市民が材料を手に入れることは難しかった。1909 富太郎はパテンレールに強い関心を抱き、国内でブレード(バテンレースの縁取りに使う細幅の織物)を生産するために、仲間たちと東洋ブレード合資会社を設立(1910)。翌年社長に就任した。当時の高田は陸軍第13師団の入城や頸城油田の活況に沸いており、電気や電話の敷設が進み、工場が立ち並ぶなど活気づいていた。好景気に乗り、高田のパテンレースは全国シェアを誇る特産品となりヨーロッパ諸国に輸出された。'17(T6)東洋ブレードは資本金50万円で市内3位、5ヶ所の工場と織機800台、従業員600人を超えるまでに発展。'19 地域のブレード工場やバテン工場を統合し、社名を日本ブレード株式会社に改組して、高田のバテンの最盛期を築いた。
 昭和に入り世界恐慌の煽りを受け次第にバテンレースの隆盛が落ち込み経営不振に陥る。'30(S5)日本ブレード株式会社を解散し、富太郎の個人経営「有沢製作所」に改組した。富太郎が自ら営業に出向き、苦労の末、'31電気絶縁テープ、'34ファスナーテープの製造に活路を見出す。晩年は上越華道会長、高田商工会初代会頭、市の参事会員などを務めた。享年68歳。

<こども広報じょうえつ2008年4月号など>


墓所

*墓正面は「有澤家之墓」。裏面「昭和三十七年三月 有澤忠一 建之」。右側に墓誌がある。富太郎の戒名は釋則整。妻はイチ(S33.11.25没)。富太郎とイチとの長男で戦後「有沢製作所」を株式会社に改組した2代目社長の有澤忠一は霊名のフランシスコ・ザビエルと刻む。忠一の妻は初枝(H7.4.17没)。3代目社長の有澤榮一(H30.11.26没)はパウロと刻む。

*富太郎没後の戦後は、長男の有澤忠一が「有澤製作所」を引継ぎ、'49 資本金2,000万円で「株式会社有沢製作所」を設立し、社長に就任。主にガラス織物の製造技術開発に着手。'60株式を東京証券業協会店頭に公開、翌年、取引所市場第2部上場させた(2002第1部上場)。エレクトロニクス関連材料などの開発、製造、販売を行っている。なお、忠一は、'89(H1)上越市立総合博物館にエミール・ガレのガラス工芸品を寄贈。'83有澤榮一が3代目社長に就任。'95(H7)有澤三治が社長に就任。2014 有沢悠太が社長に就任し現在に至る。


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