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ありさわ とみたろう

有澤富太郎

ありさわ とみたろう

1875(明治8)〜 1944.4.10(昭和19)

実業家(バテンレース)

埋葬場所: 6区 1種 16側

 新潟県高田善光寺町(上越市東本町)出身。織物卸業を営んでいた有澤栄吉(T11.1.11没)、貞子(T12.7.7没 共に同墓)の長男。 東京の学校を卒業し、父親の仕事を継ぎ、織物卸業に従事する。
 1898(M31)頃から高田での冬期間に家の中で過ごす人たちの内職としてパテンレースが取り入れられており、当時の材料のブレード(テープ)は輸入に頼っていたこともあり、市民が材料を手に入れることは難しかった。 1909富太郎はパテンレールに強い関心を抱き、国内でブレードを生産するために、仲間たちと東洋ブレード合資会社を設立。パテンレース製造を始め、高田のパテンレースは全国シェアを誇る特産品となった。
 '17(T6)東洋ブレードは5ヶ所の工場と織機800台、従業員600人を超えるまでに発展。 '19地域のブレード工場やバテン工場を統合し、社名を日本ブレード株式会社に改組して、高田のバテンの最盛期を築いた。 '30(S5)日本ブレード株式会社を解散し、初代所長有澤富太郎の個人経営の有沢製作所に改組した。 戦後は富太郎と妻のイチ(S33.11.25没 同墓)の長男の有澤忠一(H2.9.27没 同墓)が引継ぎ、戦後の'49資本金2000万円で株式会社有沢製作所を設立し、社長に就任。 主にガラス織物の製造技術開発に着手。'60株式を東京証券業協会店頭に公開、翌年、取引所市場第2部上場させた(2002第1部上場)。エレクトロニクス関連材料などの開発、製造、販売を行っている。 なお、忠一は'89(H1)上越市立総合博物館にエミール・ガレのガラス工芸品を寄贈した。

<こども広報じょうえつ2008年4月号>


*墓正面は「有澤家之墓」。墓誌があり戒名と名前が刻む。富太郎の戒名は釋則整。忠一は霊名のフランシスコ・ザビエルと刻む。忠一の妻は初枝(H7.4.17没 同墓)。


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