東京・芝区出身。祖父は幕府民政家の荒井顕道。父は幕末の幕政家で初代中央気象台長を務めた荒井郁之助。その6男として生まれる。
麻布中学、日本中学、同志社などで学業を修めたが、幼少の頃より絵を描くことが得意であり、一族の反対を押し切って画家を志し、1909(M42)自力で渡英。ロンドンのシッカー美術学校に学び、2年後には当地の新聞雑誌の絵画寄稿家としてその名を唱われるようになった。'14(T3)第一次世界大戦中、海軍従軍画家として数多くの海洋画を描く。'21家族と共にフランスに移り、'23.1帰国。翌年、旅順に行き旅順開城の下絵を描く。'28(S3)『旅順開城、乃木大将とステッセル会見の図』完成(明治神宮絵画館)。'38濠州に行き取材、'39第一次世界大戦中のインド洋における日英協同作戦の『軍艦伊吹、濠州ニュージランド軍隊護衛』を完成させた。
太平洋戦争中は東京の自宅は焼失したこともあり、'51まで軽井沢の別荘で暮らす。この間、徳川家正公、終戦後米軍アイケルバーカー中将その他の将校、最高裁判所三淵長官の肖像を描く。'56『日中貿易協定・東京調印式の図』完成。秋に中国より国賓として招待され、その画を携えて北京に赴く。この時、側近者より毛沢東主席の肖像画を依頼され受諾し取り掛かるも、翌年の春頃に肺炎にかかり帰国する。帰国後も毛沢東肖像画を継続し8分程完成をしていたが、'65.3.14自宅及びアトリエが全焼し、毛沢東肖像画等が焼失。完成することなく没す。
また、亡くなる10年以上前より描き始めた海洋気象台を中心に幕末の人物40人を含む群像の大作も未完成となった。代表作は明治神宮絵画館の壁画『水師営の会見』がある。東京渋谷の井上病院にて心不全のため逝去。享年86歳。没二日後に告別式を世田谷の松原カトリック教会で営まれた。
*墓所には寝墓石が二基。右側が「荒井陸男 / 福子 墓」、左側が「川崎家之墓」。右側の荒井陸男の墓上には「荒井郁之助墓」と刻まれた石柱が建つ。陸男の妻は福子(とみこ)。陸男の墓の右面に陸男の生没年月日が刻み、左面には石田允文、エミの刻みがある。川崎家の墓石の右面には川崎淳、マリの刻みがある。
※同墓所は数十年前より確認済であり、陸男が荒井郁之助の子であることもわかっていたが、荒井郁之助の正墓は、東京渋谷区広尾にある祥雲寺である。この事実は有名であり、なぜ陸男の墓所に碑や墓誌に刻む程度ではなく、しっかりと「荒井郁之助墓」と刻む石柱が建っているのかを長年調査してきたが、現在をもってしてわからない。補足として、多磨霊園が開園する前に荒井郁之助は没しており、正墓も祥雲寺に現存している。
本HPは故人から歴史を学ぶことをコンセプトとしているので、下記に荒井郁之助の略歴も紹介する。
荒井郁之助 あらい いくのすけ
1835(天保6)〜 1909.7.19(明治42)
幕末期の幕政家
江戸出身。武士で幕府民政家の荒井顕道の長男。名は顕徳。
1857(安政4)長崎海軍伝習所で航海術を学び航海術を習得し、海軍操練所頭取、順道艦長、講武所取締役を歴任。1867(慶應3)歩兵頭に進み、翌年の戊辰戦争で榎本武揚の軍に参加し、蝦夷仮政府の海軍奉行となるも宮古湾海戦、函館湾海戦に出撃し敗れ、下獄。
のち許されて新政府開拓使に出仕して、北海道開拓に尽力した。また1872(M5)『英和対訳辞書』 (いわゆる開拓使辞書) を編集、刊行した。1879内務省測量局長を経て、初代の中央気象台長を務めた。日食を観測したエピソードがある。
<コンサイス日本人名事典> <講談社日本人名大辞典>
*祥雲寺の荒井郁之助の正墓は和型「荒井郁之助 / 配 松本氏 墓」。祥雲寺の本堂前には徳川家達篆額による「荒井君碑」が建っている。祥雲寺には黒田如水の子の黒田長政や美濃金森、有馬頼咸らといった大名家の重厚な墓が並ぶ。
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