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あおき かくぞう

青木角蔵

あおき かくぞう

1837.2.9(天保8)〜 1901.1.7(明治34)

幕末・明治期の生糸貿易商、百草園開園者

埋葬場所: 7区 1種 15側

 武蔵国南多摩郡七生村百草里(東京都日野市)出身。青木宇右衛門の長子。 1830安政の末頃に横浜へ行き、イタリア人に学び、生糸貿易をはじめた。
 明治に入り、新政府の神仏分離令によって、故郷の松連寺が廃仏毀釈運動により廃寺となったため、1886(M19)松連寺旧跡を譲り受け、園庭旧室を修復、地名をとり「百草園」と称し、翌年4月3日から一般に公開した。 当日はあいにくの雨天であったが、花火を上げて興を添えた。 以後、百草園は文人の間で知られ、明治期に北村透谷、若山牧水、徳富蘆花、依田学海などに愛された。 詩人・随筆家の大町桂月もここを訪れて、青木角蔵の行為に触れ、「天下の名所を私せずして、衆庶の縦覧に供するこそ有難けれ」と書いている。 のち百草園は'57(S32)京王電鉄株式会社の所有となったが、現在でも約800本の紅梅・白梅があり、芭蕉句碑、若山牧水歌碑、菊池五山詩碑などが建ち、憩いの場とされている。
 1864(元治1).6.2内田比佐と結婚するが、男児に恵まれなかったため、1869(M2)同郷七生村百草里出身の青木新左衛門の二男である青木虎吉(1867.7.20〜1902.7.12 同墓)を養子とした。 虎吉は1883.(M14)12月角蔵の養子をはずれ、復帰し生家に戻るが、翌年2月に熊澤家養子となる。1887.11.28青木考吉の長女の勢運と結婚し、二男一女を儲け、1902.6.26再び先養家の青木となった。 しかし、角蔵が没する前に虎吉が先に病没したため、虎吉の長男である青木都之輔(同墓)が養子となり、角蔵没後に青木家の家督を継承した。

<青木家墓誌および碑より>
<『多摩文学散歩』横山吉男>


墓所 墓所

*墓石正面「青木家先祖代々之墓」、裏面「明治三十三年三月 青木角蔵 建之」。墓所内には墓誌が二基、「青木君墓誌」と刻む青木角蔵の碑が建つ。墓石右側の墓誌は青木宇右衛門、青木角蔵ら6名が刻む。墓石左側の墓誌は、謙二、都之輔、愛の3名の簡略歴が刻む。この墓誌の裏面に、新一、たづ子の簡略歴が刻む。道沿いに建つ真ん中に円がくりぬかれている石の灯篭には句が刻む。


青木都之輔
1889.10.22(明治22)〜 1969.4.18(昭和44)
大正・昭和期の銀行家
 横浜出身。青木虎吉の長男。後に虎吉養父の角蔵の養子となる。1901(M34)角蔵が没したため、家督を継承する。 '15(T4)東京帝国大学法律学科卒業。横浜正金銀行に入り、大阪、香港、新嘉坡、佛国リヨン市の各支店および本店に勤務し、'28(S3)帰国して、東京支店を歴任した。享年81歳。
 弟の青木健一(1894.10.26〜1923.9.1)も慶応義塾大学卒業後、住友銀行横浜支店勤務し、銀行家の道を歩んだが、30歳の若さで関東大震災により没した。 なお、母である青木勢運も関東大震災で命を落とした。なお、都之輔は'18(T7)に結婚した上原愛との間に、三男二女を儲けた。 二男の青木謙二は海軍兵学校第73期卒であり、'45.5.21北海道苫小牧沖戦で戦死した。海軍大尉。

<青木家墓誌より>


青木謙二
1923.5.17(大正12)〜 1945.5.21(昭和20)
海軍大尉
 都之輔の次男。新嘉坡出身。海軍兵学校(73期)卒業。霞ヶ浦航空隊付。 1945.5.21北海道苫小牧沖戦で、三沢基地から千歳基地に向かう途中、苫小牧沖で行方不明となる。正七位 勲六等 享年22歳。


青木新一
1921.3.16(大正1012)〜 1997.6.10(平成8)
陸軍大尉
 横浜市出身。青木都之輔の長男。1943.5.26(S18)陸軍航空士官学校(56期)卒業。同.5.27少尉に任官。同.11 南方戦線重爆機操縦となり第一線へ従軍。'44.8.1中尉を経て、'45.6.10大尉となり、終戦を迎える。'50三菱重工業株式会社に入社。'63陸士第五十六期生会中央事務局長を務める。同.5.26陸士第五十六期生会第1回全国総会を靖国神社・靖国会館にて挙行。以後、全国持ち回りにて第34回(H9)まで全国総会が開催される。'92(H3)名簿委員長。茅ヶ崎市病没。享年76歳。妻はたづ子。


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