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あおば しこう

青葉士弘

あおば しこう

1703(元禄16)〜 1772(安永1)

江戸中期の高松藩儒者(3代目)

埋葬場所: 12区 1種 32側

 青葉直行(2代目)の子として高松城下に生まれる。通称伝兵衛、号は南州。
 1724(享保8)、21歳のとき、藩命により当時の最高学府といわれた江戸の聖堂へ留学。1727(享保11)わずか三年で学業を修め高松へ帰藩。翌年には藩の儒員となり、1737(元文2)、中寄合で儒官として登用された。 藩の文庫を預かり、藩校の講堂復興にも力を注いだ。朱子学の流れをくみ、三代松平頼豊、四代頼桓、五代頼恭の三人の藩主に仕えた。特に頼恭の時代には風水害が相次ぎ、士弘は政治顧問の立場にあって領民の救済に心を砕き、砂糖、製塩、紙など産業の振興にも意を用いた。
 詩文や書も堪能で、1771(明和7)栗林園の美景二十ヵ所を五言絶句にまとめた「栗林園二十有詠応教」は有名。この詩は栗林公園北庭の記念碑となり、さらに園内の掬月亭の中に六曲一双の屏風にも認められている。 士弘は儒者後藤芝山らを育てたほか、著書に「きそぢの記」「帝王紀略」「鶏窓私言」などがある。善通寺市内にある讃岐宮の相宮先賢堂に、士弘の木像が安置されている。

<三百藩家臣人名事典6巻388頁>
<五輪塔様より情報提供>


青葉半山 あおば はんざん
1719(享保4)〜 1795.8.11(寛政7)
江戸時代中期・後期の高松藩儒者(5代目)、漢学者
 高松藩儒士弘の嫡子に生る。名は養浩。字は和言。通称は権左衛門。初号は紫峰。 父の跡をつぎ讃岐高松藩儒となり、1771(明和8)中寄合、寛政元年藩校講道館 総裁。寛政7年8月11日死去。

<大日本人名>
<日本人名大事典1巻12頁>


*青葉家の墓所は高松市の峰山墓地にあったが、1957(S32)多磨霊園に分骨され、1993(H5)全てを多磨霊園に改葬された。

*墓誌には青葉養浩(あおば ようこう)の名で刻み、紫峰(しほう)先生ともある。


【高松藩儒家青葉家系譜】
初代青葉重正元禄4.11.29歿光雲宗雪居士
二代青葉直行寛保2.5.25歿元良院善貞
三代青葉士弘安永1.3.16歿儒学青葉士弘
四代青葉養浩寛政7.8.11歿紫峰先生
五代青葉半山文政10.8.4歿半山處士
六代青葉訥斎嘉永5.12.25歿訥斉先生
七代青葉 強明治12.5.25歿青葉強清廉君
八代青葉織三郎明治26.12.10歿青葉清毅君
九代青葉直雄昭和20.7.4歿直達院法徳日寛居士
十代青葉翰於平成9.7.18歿聰達院和光日翰居士


墓所

*墓所は入口に「高松藩儒家青葉家墓所」と刻み初代から八代の名が刻む石柱碑が建つ。 正面に五輪塔、左右に墓石、左側に一基墓石が建ち、右側に墓誌が二つ建つ。入口に近い墓誌は昭和32年建立された墓誌であり、4代目を除く、初代から八代の分骨と他6名の改葬する意が刻む。 もう一方の墓誌は平成5年建立されたものであり、「将来先祖供養に遺憾なきように高松市峰山の青葉家墓所を改葬し当所にまとめて青葉家之墓の地下深くに御骨を合葬した」と刻み、墓石三十五基の碑銘没年43名が刻む。 これら二つの墓誌建立者は10代目青葉翰於。

『達つみ親の 生きしみあとをしたひつヽ
       けふも暮れけり 八十路をすぎて』


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