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あまの たつたろう

天野辰太郎

あまの たつたろう

1885.6.4(明治18)〜 1959.1.4(昭和34)

昭和期の鉄道家、第五代東京駅長

埋葬場所: 21区 2種 85側 1番

 石川県金沢市出身。鉄道人を志し、1906(M39)岩倉鉄道学校を卒業して国鉄に入社した。車掌見習いを振り出しに東京付近の駅車掌三等を勤める。鎌倉、新橋、東京各駅助役を経て、1934.12.20(S9)より鉄道局副参事を務めた。
 東京車掌室監督助手時代に旅客者の違反者の取り締まりや逸脱者の退去させる権利や責務が鉄道係員に課せられていることに対して、むしろ「列車内の公徳心」を維持するためには、乗客自らが「列車内の自治の精神」を涵養(かんよう)することが重要であると「列車内の自治」という提案をし、鉄道省と共に旅客道徳の普及に尽力した。
 高邁(こうまい)なる識見と温厚篤実な人格が認められ、'36.3 第5代 東京駅長に抜擢され就任した。'45.5.25 東京駅が空襲に見舞われる中、職員総出で消火活動に尽力。一人も死傷者を出さず、また大半を焼失した東京駅を、たった2日で仮の補修をし営業・運転再開をさせた。
 '48.12 太平洋戦争を挟む12年間務めた東京駅長を辞任。この間、子息二児が戦病死したが断腸の想いを慰やす暇もなく、日夜、恪勤精励(かっきんせいれい)、至誠奉仕の姿は周囲に感奮させた。
 '49 友人と共に東京鉄道荷物株式会社を設立し専務取締役に就任し、創業時の苦難を克服し発展させた。著書に『駅員読本 鉄道現業読本』(1938)、『交通手帖』(1942)がある。一貫した滅私奉公の精神は国鉄全職員の亀鑑として伝承された。従4位 勲4等。享年73歳。

<20世紀日本人名事典>
<歴代東京駅長列伝>
<「車内空間の身体技法」田中大介>
<昭和物故人名録>
<墓所内碑より>


墓所

*墓石は和型「天野家之墓」、裏面「昭和三十四年四月十二日 天野緑郎 建之」。左側に墓誌が建つ。戒名は浄樂院釋順道居士。妻はナヲ(S48.12.26歿・行年83)。家督を継いだ緑郎(S56.2.20歿・行年54)、緑郎の妻の芙美子(H24.2.29歿・行年86)が刻む。左側に百日忌に「元東京驛長 天野辰太郎」碑が墓所内に建之され、略歴が刻む。碑の最後に「昭和三十四年四月十二日 日本国有鉄道総裁 十河信二」と刻む。


【空襲で火に包まれた東京駅を守った第5代東京駅長 天野辰太郎】
 1945.5.25(S20)22時25分頃に空襲警報が発令された。1時間後、無数の焼夷弾が漆黒の上空から雨あられのように丸の内一帯に降り注いだ。たちまち東京駅降車口(丸の内北口)の屋根裏が火に包まれた。天野は炎を噴いている3階の天井に消火ホースを持って駆け上がる。小荷物掛によるポンプ隊は第一ホームの上から、改札掛による一隊は降車口の広場から、出札掛の一隊は運輸省前から、それぞれバケツリレーによる消火作業にあたった。
 しかし、火勢はみるみる拡がり中央口(丸の内中央口)から乗車口(丸の内南口)へと移り、3階部分が全焼すると同時に今度は2階部分へ燃え移った。1階も危なくなったことから、天野は消火作業を一時断念して業務上大切で必要な品々を外へ運び出す作業に切り換え指示した。
 午前2時頃、赤レンガ駅舎の、乗車口・中央口・降車口が一面の火に包まれた。火勢はさらに駅舎に近接していた第一ホームから第二ホームへ、さらに第三ホームへと燃え移っていった。そうした中で、小荷物運搬用としてホームにあったエレベーターが焼失すると、地方へ疎開する人たちの荷物を送ることができなくなるとして、この方は百人ほどの女子職員が一組となってバケツリレーでエレベーターを猛火から守った。
 この頃、第三ホームに燃え移っていた火が、同ホームに停車していた列車にも移った。職員たちは必死となって、まだ火が着いていない車両を押して切り離し、車輛焼失の被害を3両だけに留めた。
 朝方、火勢はようやく沈下。大正文化の象徴だった赤レンガ3階建ルネッサンス様式の巨大停車場「東京駅」は大半を焼失した。天野は駅の防火に駆け回って憔悴しきっていた職員を集めて、勤務者点呼を執り部下を労った。点呼の結果一人の死傷者もなかったことを「あんな嬉しいことはなかった」と戦後に述懐している。
 天野はすぐに運輸省に出向き報告をしたが、返答は「東京駅はどうするつもりだ」と返された。線路と八重洲口の出改札口は無傷であったため、仮の補修をすれば営業可能と判断し「すぐ営業を開始します」と応えたという。その日のうちに軍隊が東京駅に出動して焼け跡の整理にあたった。そして、たった2日後の27日、列車5本の運転を始めた。この時の乗車人数は260人、降車人数は350人と記録が残されている。次の日の28日には京浜電車が運転再開、29日には中央線の運転を再開させた。新聞は「国鉄の闘魂に凱歌挙がる」の見出しで東京駅職員の努力を賞賛した。
 東京駅は被災で駅舎の北口・南口の両翼を象っていたシンボルのドーム屋根を焼失。戦後、'47 戦災復興工事により失われたドーム屋根に代わり木造八角形の屋根となる。当初の状態より一回り規模を縮小して修復された。'99(H11)戦前の本来の形態に復原する構想が始まる。2003.4.18 東京駅は国指定の重要文化財に指定される。2007より保存復原工事が開始され、2012.6.10 復元された駅舎の1階部分を再開業し、同.10.1 全面再開業した。1914.12.20(T3)東京駅が開業し、2014.12.20(H26)開業100周年を迎えた。

<「鉄道と街・東京駅」東京駅開業70周年記念(大正出版)>
<東京駅の歴史など>



第122回 伝説の東京駅長 天野辰太郎 お墓ツアー


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