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あきば やすたろう

秋葉安太郎

あきば やすたろう

1895(明治28)〜 1969.12.4(昭和44)

昭和期の国文学者

埋葬場所: 18区 1種 26側

 千葉県山武郡蓮沼村(山武市)出身。日本大学法文学部国文科卒業。日本大学予科教授となる。1943.12(S18) 太平洋戦争下の陸軍司政官を務めた。
 戦後、'49 日本大学教授になる。'54「大鏡の語法の研究」で文学博士。'58 日本大学学長に就任。教養部を文理学部と改称。法・文理・経済・商学部の教育の一部を三島キャンパス開設などに尽力。'62 日大数学科事件が起こる。'65 停年退官し、名誉教授。日本大学国際関係学部校友会初代会長。
 主な著書に『国語概説』『大鏡本文』など多数。『坂元雪鳥能評全集』(1972)、『万葉集』(1976)の共編もある。正4位勲2等瑞宝章。享年74歳。

<蓮沼村の歴史>
<人物物故大年表>


墓所 秋葉安太郎像

*墓石は和型「秋葉家之墓」、右側に「秋葉安太郎像」が建つ。像の裏には「昭和三十六年一月 勅題 若を畏みて詠める 安太郎 やがて咲く 万朶の花を しのひつつ おほしたてなむ 若さくら かな」。また下側に「叙勲記念 昭和四十二年五月」と刻む。像の台座の左面「昭和四十五年三月建之」、裏面が墓誌となっている。戒名は顯學院哲譽浄安明道居士。妻は幸。


【日大数学科事件】
 1962(S37) 秋葉が日本大学の文理学部長を務めていた時に「日大数学科事件」が起こる。この時期は日大闘争が起きた全共闘時代であり、学校側は思想にあわないと辞職を強要する体制となっていた。そのため学部長の秋葉が、数学科助教授の福富節男、木下素夫、専任講師の銀林浩、倉田令二朗の4名を呼び出し、「君たちはこの大学の思想にあわない、事ここに至った以上やめてもらう。辞表を3月31日までにだすよう」と宣告した。これに伴い、福富は東京農工大学、銀林は明治大学へ移る。木下と倉田の2名は転職先が見つからず、職員として日大に籍を置く結果となったが、2人への待遇は、諸手当を除いた基本給のみしか支給されない不当なものだったという。
 同.11 東京農工大に転職した福富が私物を取りに日大文理学部に行った際に、日大職員から白昼の公道で暴行を受ける事件が起こった。これを受け、福富は秋葉に抗議文を送り、謝罪や暴行者に対する措置の返答を求めたが、誠意ある返答がなかった。
 事件から46年後、2008(H20)日大文理学部数学科創立五十周年の式典が行われた。文理学部長の島方洸一教授の式典の挨拶の辞は「四十数年前、当時の先生方に大学が辞職を強要するということがあったが、まことに不当なことで、関係者の皆さんにお詫び申し上げる」と、五十周年を祝す言葉ではなく数学科事件を日大側が公式に謝罪する言葉であった。島方教授は機を待ってこの言葉を吐くことができて「数十年のつかえ」が下りた気がすると後に語った。

<「日大数学科事件とその結末」福富節男>


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