【日大数学科事件】
1962(S37) 秋葉が日本大学の文理学部長を務めていた時に「日大数学科事件」が起こる。この時期は日大闘争が起きた全共闘時代であり、学校側は思想にあわないと辞職を強要する体制となっていた。そのため学部長の秋葉が、数学科助教授の福富節男、木下素夫、専任講師の銀林浩、倉田令二朗の4名を呼び出し、「君たちはこの大学の思想にあわない、事ここに至った以上やめてもらう。辞表を3月31日までにだすよう」と宣告した。これに伴い、福富は東京農工大学、銀林は明治大学へ移る。木下と倉田の2名は転職先が見つからず、職員として日大に籍を置く結果となったが、2人への待遇は、諸手当を除いた基本給のみしか支給されない不当なものだったという。
同.11 東京農工大に転職した福富が私物を取りに日大文理学部に行った際に、日大職員から白昼の公道で暴行を受ける事件が起こった。これを受け、福富は秋葉に抗議文を送り、謝罪や暴行者に対する措置の返答を求めたが、誠意ある返答がなかった。
事件から46年後、2008(H20)日大文理学部数学科創立五十周年の式典が行われた。文理学部長の島方洸一教授の式典の挨拶の辞は「四十数年前、当時の先生方に大学が辞職を強要するということがあったが、まことに不当なことで、関係者の皆さんにお詫び申し上げる」と、五十周年を祝す言葉ではなく数学科事件を日大側が公式に謝罪する言葉であった。島方教授は機を待ってこの言葉を吐くことができて「数十年のつかえ」が下りた気がすると後に語った。