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あかぎ やすのぶ

赤城泰舒

あかぎ やすのぶ

1889.6.20(明治22)〜 1955.1.31(昭和30)

明治・大正・昭和期の洋画家、水彩画家

埋葬場所: 6区 2種 25側 13番

 静岡県駿東郡長泉町中土狩出身。静岡の医師の家に生まれる。先祖は会津藩の侍医の家柄。本籍は福島県塩川町(喜多方市)。幼いころから病気がちで、沼津中学を病気のため退学。療養のため、1904(M37)一家で神奈川県葉山に移り、翌年、父の郷里の福島県塩川町に帰住した。
 '06上京し、大下藤次郎の内弟子となり、水彩講習所と太平洋画会研究所に学んだ。'07日本水彩画会研究所新設と共に同所に転じ、水彩画を習得。'13(T2)まで同会幹事をつとめながら修業した。この間、'09第3回文展に『高原の朝』が初入選。その後も文展の他、帝展、二科展、光風会展、日展等に多くの水彩画を出品した。
 '11大下没後に雑誌「みづゑ」の編集を引き継ぎ従事。'13同志と共に日本水彩画会を創立し、'18光風会々員に推された。'20より私立文化学院で絵を講じ、'42女子美術専門学校の講師として後進の指導するなど美術教育にも尽くした。'43(S18)新文展の審査員。
 代表作に『白い砂』『大島の冬』など多数。'29(S4)『水絵の手ほどき』を刊行。脳出血のため東京都新宿区に於いて逝去。享年65歳。没後、'68遺族より約300点の作品が信州新町へ寄贈され、それらの作品は信州新町美術館に展示されている。

<日本美術年鑑>
<20世紀日本人名事典など>
<野口聡様より情報提供>


赤城家墓 墓所

*墓石は自然石に「赤城家墓」とあり、墓所右手に「赤城泰舒墓」の墓誌碑が建つ。この書は「柏亭」と刻み、花の刻みと共に「昭和三十年一月三十一日歿 / 同三十三年三月二十一日建」と刻む。同墓には子でマンドリン・ギター指導者・作曲家の赤城淳(1920-2007.5.5)も眠る。


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