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あかばね かつみ

赤羽克己

あかばね かつみ

1869.4.10(明治2.2.29)〜 1941.7.5(昭和16)

明治・大正・昭和期の実業家

埋葬場所: 6区 1種 16側

 岩代国若松(福島県会津若松市)出身。代々は会津松平家家臣。父の赤羽治平友温は禄100石の会津藩勘定頭、斗南藩大属会計係。三男として生まれる。同藩士の赤羽友春の養子となる。養母のユウは若松市長を務めた松本時正の妹。養父母の長女のミヨの婿養子、1912(M45)家督を相続。
 1894(M27)東京高等商業学校(一橋大学)を卒業し、堀越善重郎が設立した堀越商会に入り、ニューヨーク支店長などを務めた。三井物産に転職し、国府津出張所長、三池支店長、本社業務課長を歴任。
 1921.12(T10)南満州鉄道理事に就任し、オイルシェール事業に着手。第一次世界大戦後に世界は石油の重要性が認識されたが日本の産出量は微量であった。当時の満鉄は撫順炭鉱から産出される石炭を所有しており、露天掘りがされていた。撫順炭鉱の上層部は、分厚い油母頁岩(ゆぼけつがん)で覆われており、油母頁岩から人造石油を製造する可能性が注目されていた。海軍は燃料を石炭から石油へと変更したいと考えていたこともあり、満鉄は、'19から研究が始められた。このタイミングで満鉄理事に着任した赤羽は、頁岩油の事業化を図るために尽力。大蔵省と海軍省を味方につけて、油母頁岩の価値を論じた意見書を難色を示していた法務大臣の江木翼を説得。満鉄のオイルシェール事業の基礎を築き、'25.12 退任。その後、オイルシェール事業は拡大し、海軍に重油を納入するようになり、昭和期の満鉄は石炭の液化事業で発展した。
 満鉄退任後は、三井財閥の北海道炭礦汽船株式会社の常務取締役に就任。その他、日本製鋼所、夕張鉄道、輸西製鉄、小野田セメント製造、昭和石炭、室蘭電灯で重役を務めた。享年72歳。

<「満鉄を知るための十二章」天野博之>
<人事興信録>


墓所

*洋型「赤羽家」。裏面が墓誌となっており、「赤羽克己命」から代々の名と、歿年月日、行年が刻む。克己の行年は73才と刻む。妻は美代(1879.12-1944.8.13)。美代は克己の養父の知春の長女。

*赤羽克己と美代との間には4男6女を儲ける。長男の赤羽誠一(同墓 1900.9-1971.11.15)は米国コーネル大学工科卒業後、中島飛行機製作所の技師として活躍した。誠一の妻は操子(同墓 1906-1944.1.13)は漢方家の山本巌の妹。長女の貞子は田上智川に嫁ぐ。二男の敬二は三井鉱山で勤務。二女の操子は長崎県多額納税者・銀行家・政治家の中尾謹三郎の長男で銀行家の中尾邦雄に嫁ぐ。三女の孝子は外交官の塩崎観三に嫁ぐ。四女の悌子(同墓 1909.11-1930.12.2)は三井造船の勝守陸太郎に嫁すが、21歳の若さで没したため、墓誌に「勝守悌子」と刻みここに眠る。二人の娘の美子を赤羽家が養子として引き取っている。五女の和子は銀行家の見城重平の長男の重男に嫁す。六女は親子(同墓 1915.9-1925.3.10 11才歿)。三男は良三。四男は裕志。


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