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十五世名人 大山康晴「王将」碑

十五世名人 大山康晴「王将」碑

碑石所在地: 16区 1種 20側
建立年月日: 不明

 墓所内に和型「大山家之墓」、その右側に十五世名人 大山康晴 之書「王将」碑が建つ。碑石には氣之院釋然昭大士とも刻む。裏面は昭和三十九年九月十九日歿と刻まれている。建之年月日の刻みはない。
 ここの墓所は大山勇の墓所であり、昭和三十九年九月十九日歿はまさに大山勇の命日であることから、碑は勇に対しての碑であると推察する。しかし、大山康晴が十五世名人を襲名したのが、'76(S51)であることから、それ以降に建之されたものとわかる。
 大山勇は57歳で没しており、戒名は●光院釋然照大士(●=裁←衣ではなく糸)。妻は とく。大山康晴の弟も大山勇という同名であるが、弟は大阪でオーヤマ・データサービス株式会社の社長を務めておりご健在ですので、別人です。この墓所に眠っていらっしゃる大山勇と大山康晴の関係は現在調査中。

どなたかご存知の方がいらっしゃいましたらご一報ください。


墓所

※この墓所には大山康晴は眠っていません。しかし、この「王将」碑が目につきやすいこともあり、この墓所が大山康晴の墓所と誤認される方が多いため、碑石紹介のここのページにて紹介をすることにします。なお、大山康晴の墓所は岡山県倉敷市の生家の墓所である。


 大山康晴書「王将」の碑は多磨霊園の他に全国で二か所見ることが出来る。東京都の将棋会館の最寄駅であるJR千駄ヶ谷駅構内(ホーム水飲み場)と、山形県天童市の人間将棋会場の舞鶴山にある。どの「王将」碑も字体はそれぞれ異なる。また、大山康晴の記念館は、生家近くの倉敷市大山名人記念館と、青森県上北郡おいらせ町の大山将棋記念館の二か所ある。


大山康晴 おおやま やすはる
1923.3.13(大正12)〜 1992.7.26(平成4)
十五世名人(永世十段・永世棋聖・永世王位・永世王将)将棋棋士、将棋界の巨人

 岡山県浅口郡西阿知町(倉敷市)出身。家業、精米・製粉業を営む父の次男として生まれるが兄は早世。
 1928(S3)5歳で将棋を覚える。'35河内尋常高等小学校を卒業し、大阪の木見金治郎九段の門に入る。'40四段、'48八段、'58九段、'76十五世名人を襲名。
 タイトル履歴は、名人 18期(第11期-1952年〜15期・18期〜30期)−十五世名人。
九段 6期(第1期-1950年度〜2期・9期〜12期)。
十段 8期(第1期-1952年度〜6期・8期・12期)−永世十段。
王将 20期(第2期-1952年度〜4期・7期〜11期・13期〜21期・29期〜31期)−永世王将。
王位 12期(第1期-1960年度〜12期)−永世王位。
棋聖 16期(第1期-1962年度後〜7期・9期・16期・24期〜30期)−永世棋聖。
登場回数合計 112回、獲得合計 80期。生涯成績 1433勝781敗。竜王戦 1組−4期。順位戦 A級以上−連続44期。
 '77〜'88日本将棋連盟会長。'79NHK放送文化賞。'79紫綬褒章。'87第3回東京都文化賞。'87菊池寛賞。'90(H2)将棋界初の文化功労者。 晩年はガンの治療を行いながら、順位戦を休場せずに生涯現役を貫きA級在籍のまま死去した。享年69歳。正四位勲二等瑞宝章追贈。
 有名な語録として「助からないと思っても助かっている」「平凡は妙手に勝る」「一回目のチャンスは見逃せ」「終盤は二度ある」「最善形にしたらあとは悪くなるだけ」「長所は即欠点につながる」などなど。

<コンサイス日本人名事典>
<カリスマたちの遺言など>


 


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