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李王家供養塔

李王家供養塔

碑石所在地: 22区1種6の2側
建立年月日: 昭和 30年5月吉日
建立者  : 李 垠

 宝篋印塔「李家先祖代々菩提之為也」、地蔵墓石「李家童男童女身菩提」と刻む「李晋供養塔」が建つ。宝篋印塔の前面に「李家先祖代々菩提之為也」、左面に「昭和三十年五月吉日 功徳主 李垠」と刻む。宝篋印塔の左側に地蔵墓石「李晋供養塔」が建つ。右面「李家童男童女身菩提」、左面「昭和三十年五月吉日 施主 李垠」と刻む。


墓所地
地蔵墓石(左面) 地蔵墓石(正面) 地蔵墓石(右面)


李 晋 り しん
1921.8.18(大正10)〜 1922.5.11(大正11)
 父は大韓帝国最後の皇太子の李垠(り ぎん)、母は日本の皇族の梨本宮守正王・同妃伊都子夫妻の第一王女子の方子(まさこ)女王。
 1920.4.28(T9)李垠と方子が結婚。翌年、第一子として日本で生まれる。8月24日に「晋」と命名。誕生後に乳母が置かれたが、母である方子女王自らが母乳を与えるようになる。朝鮮の王族と日本の皇族との間に生まれたため「日鮮融合」の象徴として注目された。
 '22.4 夫妻は生後8ヶ月の晋を連れて日本統治下の朝鮮に訪問。晋と李王(純宗)との対面や李王朝の儀式等に臨む目的であった。
 帰国直後、同.5.8より、晋は下痢や嘔吐が始まる。帰国を中止し看病にあたるが、食事を受け付けず衰弱していき、同月11日15時15分、晋は急逝した。医者からは急性消化不良と診断される。日朝双方による毒殺説が流布した。同月17日、朝鮮式での葬儀が京城(ソウル)で執り行われ、京畿道商陽郡清涼里に埋葬された。


【李 垠と方子】
 李 垠(り ぎん、イ・ウン:1897.10.20-1970.5.1)は李氏朝鮮(朝鮮国)が大韓帝国と改称した年に初代大韓帝国皇帝(李氏朝鮮第26代国王)高宗の第七皇子として生まれる。大韓帝国最後の皇太子。'26(T15)純宗の死去に伴い李王家を継承。李王(李家当主:李王垠)。
 1907(M40)10歳の時に伊藤博文ら日本政府の招きにより留学名目で訪日し、'08より学習院に入学した。'10日韓併合により王世子となり、高宗、純宗、皇后とともに王族として日本の皇族に準じる待遇を受ける。敬称は「殿下」。
 '11.9陸軍中央幼年学校に編入し、陸軍士官学校卒業(29期)。陸軍大学校卒業(35期)。歩兵第59連隊長、士官学校教官、近衛歩兵第2旅団長などを歴任し、最終階級は陸軍中将。終戦直後は軍事参議官を務めた。
 この間、'16 方子女王との婚約が決まったが、日本の皇族と王公族の身分の取り扱い問題が表面化し、最終的には、'18.11.28皇室典範第39条が増補されて、皇族女子と王公族の結婚が容認された。同.12.8 納采の儀。方子女王の女子学習院卒業後、'19.1.25 婚儀の予定だったが、李太王(高宗)が急逝。この突然の死に対して、日本側の毒殺説ではないかという陰謀論が出、三・一運動の引き金となる。婚儀は延期となり、喪服期間は大正天皇の要望で、皇族同様に1年間の喪に服すこととなった(朝鮮式であると数え2年、実質3年間)。婚礼の直前に朝鮮独立運動家による暗殺未遂事件(李王世子暗殺未遂事件)が発生したが、'20.4.28(T9)李垠は皇族の方子女王と結婚。政略結婚であったが、方子や梨本宮家との愛称が良く良好な関係であった。結婚翌年に第1男子の晋が誕生するが、'22.5.11急逝。その後、'23(T12)、'30(S5)の2度の流産を経て、'31(S6)第二子・玖(きゅう)が誕生した。
 戦後、'47.5.3日本国憲法施行に伴い王公族制度廃止により李王の身位喪失。同.10.18 皇籍離脱により日本国籍を喪失し無国籍となる。大韓民国への帰国を希望するが、当時は日本と大韓民国は国交が樹立されておらず、また大韓民国の初代大統領の李承晩は、李垠が帝政復古するのではないかと疑い妨害もあり帰国できなかった。在日韓国人という形で日本に留まる中、'55 多磨霊園に李王家供養塔を建之。
 '57.5.18 日本国籍を取得し、夫妻で渡米し、同.6.7 李玖のマサチューセッツ工科大学(MIT)卒業式に出席した。'58 李玖は、ヨーロッパ系アメリカ人女性のジュリア・マロックと結婚しアメリカに帰化した。夫妻も米国に留まり同居していたが、'59.3.16 李垠が脳梗塞で倒れる。同.5.17 日本へ帰国。李垠は回復。
 '61日本に立ち寄った朴正煕大統領と李垠は面会。朴から韓国国籍の回復を約束される。同年再び李玖がいるニューヨークへ夫妻と渡米し、次の年には李玖がハワイで事業を起こしたこともありハワイへ訪問。'62.12.15 韓国政府より李垠夫妻に大韓民国国籍の回復が告示される。'63 日韓国交正常化交渉が始まると、同.11.22 李垠夫妻は韓国に渡る。李垠は病身であったため金浦国際空港からソウルの聖母病院へと直接運ばれた。この際、李玖夫妻も同行し、そのまま昌徳宮楽善斎に居住。以降、李玖は韓国にて実業家となる。
 '70.4.28 李垠夫妻結婚50周年の金婚式を病院で開くも、李垠は3日後に逝去。享年72歳。李垠は皇帝への即位はなかったが、朴正煕の許可を経て王家の宗廟である永寧殿に「懿愍太子」の諡号で位牌が納められた。
 息子の李玖は韓国で実業家となったが、経営していた新韓航空が倒産し、夫婦関係も悪化したことからジュリア夫人とは離婚('82)。ジュリア夫人との間に子宝は恵まれず、養女を迎えている。後に李玖は有田キヌ子と再婚したが、子宝には恵まれなかった。
 '89.4.30(H1)方子(1901.11.4-1989.4.30)逝去。享年87歳。葬儀は旧令に従い、韓国皇太子妃の準国葬として執り行われ、日本からは三笠宮崇仁親王・同妃百合子夫妻が参列した。2005 李玖(1931.12.29-2005.7.16)は東京の赤坂プリンスホテルにて心臓麻痺のため急逝。子がなかったため、李垠と方子女王の直系子孫は断絶した。  

<英親王李垠伝 李王朝最後の皇太子>
<帝国陸軍将軍総覧>
<華族歴史大事典など>



第138回 大韓帝国最後の皇太子の子供の供養塔 李王家供養塔 参り


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