仁川沖海戦(じんせんおきかいせん)は日露戦争での日本海軍とロシア海軍との間の海戦。
旅順港への奇襲と並行して行われ、日露戦争の口火を切った戦いとして知られる。

1904年2月8日、日本海軍第四戦隊は、帝国陸軍の先遣隊一個旅団の上陸支援を行ったが、同時に仁川港に停泊中のロシア太平洋艦隊所属の艦船を撃破する任を負っていたため、港内のロシア艦隊に退去勧告を行い、退去しない場合は攻撃を加える旨を伝えた。なお、第四戦隊が仁川港に入港する際に偶然出港しようとしたロシアの航洋砲艦「コレーエツ」はそのことを知らず、すれ違う時に儀仗隊を甲板に並べて敬意を表したが水雷艇からの魚雷攻撃を受け慌てて一発砲撃して引き返した。この小競り合いが日露戦争で両国が交わした初めての戦いとなった。
2月9日退避勧告によってに仁川港から出航したロシア艦隊を待ち構えていた日本艦隊の砲撃で、一等防護巡洋艦「ヴァリャーグ」はまもなく大破した。圧倒的な戦力の前に仁川港に引き返し、乗組員を上陸させたのちに鹵獲を避けるために航洋砲艦「コレーエツ」とともに自沈した。両艦は、大軍を前に決して降伏しなかった武勇艦としてロシアの歴史にその名を残している。
戦闘後、「コレーエツ」は放棄されたが、「ヴァリャーグ」は引き上げられ二等巡洋艦「宗谷」として日本海軍に編入された。   出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
防護巡洋艦ヴァリャーグの戦い
日本海軍に包囲された泊地から、優速を利して仁川を脱出しようとしたヴァリャーグは、第四戦隊の旗艦浅間と一騎打ち状態の戦いとなった。
当時日本海軍はすでに統一管制による砲撃を実用化しており、装甲巡洋艦浅間の放った8インチ砲4門の斉射は何度もヴァリャーグに夾叉なってヴァリャーグの上部構造をほぼ破壊し尽した。
一方ヴァリャーグも果敢に砲撃を繰り返し、実に1,100発以上の砲弾を発射したが効果的な着弾を得ることができず、仁川港に引き返し自沈を選択。
その後の熾烈な日露の戦いの幕開けとなる海戦でした。
参加艦艇
 防護巡洋艦 ヴァリャーグ     1/350 コンブリック
1900年、アメリカ ウィリアム・クランプ&ソンズ/フィラデルフィア造船所で建造された防護巡洋艦。1904年2月8日朝鮮半島仁川港港外にて僚艦コレーツと共に日本海軍装甲巡洋艦「浅間」を初めとする優勢なる日本艦隊と砲撃戦の末大損害を受け自沈した。
  砲艦 コレーツ             1/350 261BOX 
砲艦「コレーツ」は1886年にベルグサンド/ストクホルム造船所で建造された帝政ロシア海軍の航洋砲艦。艦銘は「高麗」を意味する。僚艦「ワリヤーグ」と共に洋艦「浅間」以下6隻の巡洋艦艦隊と砲火を交えるが、水雷艇の放った魚雷が命中浸水し、止む無く火薬庫に火を放ち爆沈した。
 装甲巡洋艦 浅間           1/700 シールズモデル 
装甲巡洋艦 浅間は、大日本帝国海軍が日露戦争前にイギリスから購入した最初の装甲巡洋艦。
日露戦争では開戦初頭の仁川沖開戦でヴァリャーグ、コレーツと戦い、日本海海戦では舵機に損傷を負いながらも戦い抜いた。第二次大戦終了まで日本海軍の軍艦として活躍。