鶴岡 政之さんを偲んで
鶴岡政之氏
日本の艦船模型の第一人者で、モデルアート艦船スペシャルの筆頭ライターでも有り、フォルクローレの名奏者でもあった鶴岡さん。
大手海運会社の常務取締役と言う重責なる立場にあっても、時間を作っては模型製作に勤しむ姿は今でも忘れられないものでした。
家庭にあっては奥様と三人のお子様達に、寸暇を惜しんで家族サービスにも励んでいたと聞いております。

そんな彼が・・・・一人で旅立ってしまうとは、今でも信じられない思いでいっぱいです。
平成24年8月22日、彼は片道切符の列車に乗り込み、全てを置いて行ってしまいました。
享年55歳。
心から哀悼の意を表します。
昨年11月の癌宣告からこの日まで、何度も連絡を取ってはいましたが、次第に痩せられ声もかすれてくる中で、なんとか癌と戦って行くんだとお話をされており、一月にお見舞いにお伺いした時は、殆ど病気の話をせずに次に作りたい模型の話に終始しておりました。
また、最後にお電話をいただいた時は、苦しげな息遣いの中で「指が震えて製作なんか出来ないのに、通販で欲しかったキットを買ってしまいましてね〜、笑ってくださいや!」と・・・・・。
その後にお贈りいただいたサクランボの味は、終生忘れられないものになりそうです。

自分は室蘭模型愛好会(以下MPMC)と言うサークルに属して早30年を過ぎようとしています。
鶴岡さんと出会ったのはそんな中、彼がMPMCの正会員として入会し、札幌で行われた合同例会に参加してからです。
何故に千葉県在住で艦船モデラーのスペシャルライターの鶴岡さんが、北海道の模型クラブに入会したのかをお聞きしたところ、なんと元をたどると函館に居られた艦船模型の大家である故長谷川藤一氏との関連で有ったとのこと。
長谷川氏は自分が16歳の時に出会い、氏の作られる艦船模型に衝撃を受けてから密かに大師匠と仰がせていただいたと言う経緯が有りました。
鶴岡さんもさる大きな艦船模型の会で氏と出会い、やはり師匠と仰いでのことだったと仰っておりました。
(函館〜室蘭の経緯は省略させていただきます)
その後模型おいては自分が足元にも及ばない著名な方であるにも関わらず、何故か妙に馬が合い、今日まで実に親しくお付き合いをさせていただいておりました。
模型の他にもマイナーな音楽(氏はフォルクローレ、自分はブルーグラス)の活動や、B級グルメの食べ歩き等が、なにか妙に・・・息が合って、遠くに離れた状態でも常に色々とお話をさせていただいておりました。
そんな中2005年に日本海海戦100周年を祈念して日露各艦をコンプリートする壮絶な企画の中、せっかく作った作品を多くの方に見ていただこうと艦船模型サイト「無限蒸気艦」を立ち上げる事になりました。
その際には専門的な分野でのアドバイザーとして「国親父座郎」のHNで当サイトのバックボーンをお引き受けいただいたおかげで、未熟な自分でもなんとかここまでサイトを続けてこられたのものと感じています。
これもひとえに鶴岡さんのおかげと言っても過言ではないと思っています。

鶴岡さんがいなくなった今、ちょっとサイトとしての目標を失ったような・・・妙な感覚が有りますが、氏の残してくれた大きな財産!、人と人との繋がりを信じてもう少し続けてみようかとも思っているところです。
鶴岡さんとの思い出

鶴岡さんとは年に数回くらいしかお会いできませんでしたが、会えば模型談義から仕事、家庭のことまで深くお話をさせて頂いておりました。
で、・・・・・やはり会えばまずはお酒!
左の写真は2010年に浅草であった艦船模型合同展示会打ち上げ2次会での一コマ。
7月の三連休で、ちょうどこの日が関東の梅雨明け宣言で、夜になっても30℃くらいの気温の中、浅草の屋台街みたいなところで心行くまで飲み明かしたときの思い出の写真です。
なにか左の北国海軍工廠さんも相当きている感じですが・・・・。

鶴岡さんのお酒は、もう唯唯明るいお酒で、飲むほどに楽しいひと時を過ごさせていただきました。
で、やはり多かったのが艦船スペシャルの作例でのお話。

たまにご同席させていただいたK編集長とのやり取りは、横で聞いていても・・・なかなかに脂っこいもので、なんとか逃げ切ろうとする鶴岡さんにそうはさせじと食い下がる編集長! 暫くのやり取りの後「じゃ、そういうことで宜しくね!」「えっ?私やるって言いましたっけ!」見たいな・・・。
で、大概はその号での目玉記事を仰せ付けられ、「いや〜今回ばかりは本当に参っているんだよね〜」とよく電話をかけてきていました。(ほぼ毎回だったような気が・・・)
しかし、流石は鶴岡さん、素性の知れない妖怪キットでも最初にどこを見せ場にすればよいかをキッチリと選定し、後は常人には計り知れない技術で作例を作り上げていきました。
よく電話で次のキットは「ここのこういうとこををキッチリ見せ場にしないと、見るとこないんだよね〜このキットは」とか言ってましたっけ。
1/350赤城では甲板下のトラスのエッチングの高さが不揃いで、なんか呪いの言葉を吐きながらの製作だったとか。
また、イースタンエクスプレス(現ズベズダ)の1/350ロシア戦艦ボロディノでは、凄い作りたかったキットだっただけに、組み立て精度のあまりの悪さに逆にこれでもかって闘志が湧いたとも。
中でも一番参ったと言っていたのはP社の1/350「こんごう」。
出来とか以前に締め切りまでに製品が全然上がっておらず、試作パーツのようなのがポチポチと順次送られてくる始末・・・・。
どこを見せ場にする以前に、本当に部品が全部揃うのかが大変心配だったと語っていました。
これの時は本当にため息をついておられましたね。

第一回