ロシアは、1898年の遼東半島租借以降、旅順口を根拠地とする旅順艦隊(第1太平洋艦隊)を極東に配備し、旅順口を囲む山々に本格的な永久要塞を建設していた。日本が日露戦争に勝利するためには、日本本土と朝鮮半島との間の補給路の安全の確保が欠かせず、したがって朝鮮半島周辺海域の制海権を押さえることが必須であり、そのためには旅順艦隊を撃滅する必要があると想定していた。また最終的に旅順に立て籠ったロシア陸軍勢力(2個師団)は日本軍の補給にとって重要な大連港に対する脅威でもあった。

開戦後、港外奇襲と港口封鎖作戦が実行されたが、失敗もしくは不十分な結果で終わり、旅順艦隊の戦力は保全され続けた。2月末頃からウラジオストク巡洋艦隊が活動を始め、3月以降は第二艦隊を対ウラジオストク巡洋艦隊専任に裂かねばならなくなった。しかし海軍はなおも「海軍独力による旅順艦隊の処置」に拘り、以後も港口の閉塞を目的とした作戦が続けられた。 3月27日、第二回閉塞作戦が実行されたが、閉塞は果たせなかった。

第一回総攻撃(明治37年8月19日〜24日)
総攻撃を前に第三軍は軍司令部を柳樹房から鳳凰山東南高地に進出させた。
更に団山子東北高地に戦闘指揮所を設け戦闘の状況を逐一把握できるようにした。
ここは激戦地となった東鶏冠山保塁から3キロという場所でしばしば敵弾に見舞われる場所であった。以降、攻囲戦は主にここで指揮が取られることになる。

8月18日深夜、第三軍(参加兵力5万1千名、火砲380門)各師団は其々目標とされる敵陣地の射程圏外まで接近し総攻撃に備えた。
翌8月19日、各正面において早朝より準備射撃が始まる。使用弾丸数11万3千発という前例の無い大砲撃が1時間強に渡って加えられ午前6時、日本第三軍は旅順要塞に対して総攻撃を開始した。後備第11旅団は目標の大頂子山を3日連日の猛攻の末22日に占領。しかし水師営方面を担当した第1師団と東鶏冠山方面の第11師団は進撃できず大損害を被った。

第二回総攻撃前哨戦(明治37年9月19日〜22日)
月15日、対壕建設を終えた第3軍は19日、占領した盤竜山と大頂子山から周辺へ陣地を拡大し安定化を目指した攻撃(第2回総攻撃に向けての前哨戦)を行った。17時頃より南山披山と203高地へ2個後備連隊4,000名による攻撃が行われた。その晩は月夜でロシア軍の攻撃は正確を極め前進することができず、翌20日に突撃は延期された。
20日5時より始まった突撃で南山披山はわずか10分で守備隊が後退し占領。しかし203高地では激戦となり20日の夕刻には西南堡塁を占領するが東北堡塁の露軍と射撃戦となる。21日には双方増援を出すが日本側は予備隊の配置が後方すぎたため、進撃中に激しい銃火を浴び到着は夜間になってしまう。そのまま22時に東北保塁へ攻撃を掛けるが失敗。22日の10時までに6度に亘る東北堡塁への攻撃は全て失敗し日本軍は撤退を余儀なくされた。龍眼北方堡塁や水師営周辺の堡塁群などは制圧に成功し203高地以外の戦略目標の占領には成功した。

第二回総攻撃(明治37年10月26日〜30日)
10月15日、バルチック艦隊がウラジオストクに向かって出航したという報を受け、陸軍は海軍から矢のような催促を受けるようになる。
そのような中で10月26日、二八センチ榴弾砲を配備して、第二回総攻撃を開始する。目標は突起部を形成している盤竜山及び竜眼北方保塁の周辺を占領し安定化させることであった。

4日間に亘る二八センチ榴弾砲の威力は凄まじく、目標となった二竜山堡塁は兵舎が破壊され東鶏冠山堡塁では火薬庫が爆発するなどの大損害を蒙った。29日にはロシア軍が反撃に転じるが失敗し、30日に今度は日本軍第9師団が無名の堡塁(通称P堡塁)を攻撃し、第6旅団が苦闘の末夜半には占領する(後にP堡塁は一戸堡塁と改称する)。
日本軍は戦死1,092名、負傷2,782名の損害を出すが、ロシア軍も戦死616名、負傷4,453名と日本軍以上の損害を受けた。日本軍は作戦目的は達成していたが占領したのはP堡塁のみであったため、第二回総攻撃は失敗と考えた。

第三回総攻撃(明治37年11月26日〜12月6日)
11月29日に旅順へ向かった児玉満州軍総参謀長が12月1日に到着。途上、203高地陥落の報を受けたが後に奪還されたことを知った児玉は大山満州軍総司令官に電報を打ち、北方戦線へ移動中の第8師団の歩兵第17連隊を南下させるように要請した。

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
日本軍は12月1日から3日間を攻撃準備に充て、攻撃部隊の整理や大砲の陣地変換を行った。2月4日早朝から203高地に猛攻を開始し、5日9時過ぎより第7師団歩兵27連隊が死守していた西南部の一角を拠点に第7師団残余と第1師団の一部で構成された攻撃隊が西南保塁全域を攻撃し10時過ぎには制圧。
態勢を整え13時45分頃より東北堡塁へ攻撃を開始し22時にはロシア軍は撤退、203高地を完全に占領した。翌6日に乃木は徒歩で203高地に登り将兵を労うが、攻撃隊は900名程に激減していた。

この攻撃での損害は日本軍は戦死5,052名、負傷11,884名。ロシア軍は戦死5,308名、負傷者は12,000名近くに達した。ロシア太平洋艦隊の全滅が確認され、児玉は煙台にある満州軍司令部へと戻った。

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日本陸軍 二十八糎榴弾砲
日本陸軍 二十八糎榴弾砲は、1880年代に大日本帝国陸軍が開発・採用した榴弾砲。
旧称は二十八珊砲。
主に日露戦争に実戦投入された本砲はその火力を発揮し、日露戦争勝利の大きな立役者として活躍した。
もともとは対艦用の沿岸砲として日本内地の海岸に配備されていたものであったが、日露戦争勃発後に陸軍技術審査部は二十八糎砲を攻城砲として使用する案を掲示し、陸軍省砲兵課長であった山口勝陸軍砲兵大佐も賛同した。攻城砲兵司令官豊島陽蔵陸軍少将は満州の野戦における重砲運用の難しさなどから当初この案を退けたものの、二十八糎砲を要望する現場の声が高まったため同砲を動員することになった。