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日本海軍連合艦隊の封鎖作戦で旅順港内に立てこもっていたロシア太平洋艦隊は、日本陸軍第三軍による陸上からの旅順要塞攻撃が開始された事や、極東総督アレクセイエフが、旅順艦隊に対しウラジオストクへの回航を強く命令したことと、第三軍と行動を共にしていた日本海軍陸戦重砲隊が旅順港に向けて行った砲撃により、戦艦「レトヴィザン」が水線部に、戦艦「ツェサレーヴィチ」は艦橋に損傷が発生、ヴィトゲフト司令長官自身が負傷するなど、旅順艦隊に少なからぬ被害が発生してきたことから、このまま旅順港に艦隊を置いておくことが危険になってきたと判断し、艦隊を旅順港からウラジオストクへ回航することを決定した。
連合艦隊は旅順の西南23カイリ付近で、南下してきた旅順艦隊を確認。
旅順艦隊の追撃を開始するが、旅順艦隊は海戦に及ぼうとせず、終始ウラジオストク方面に逃げの姿勢に徹した。
日本艦隊は旅順艦隊との距離7000メートルで丁字戦法を実行したが、旅順艦隊は変針して連合艦隊から逃れたために、丁字戦法は中途半端な形となり、逃げる旅順艦隊を追撃することとなった。
夕刻までに旅順艦隊に追いついた連合艦隊は攻撃を開始。
この攻撃で旅順艦隊旗艦「ツェサレーヴィチ」の艦橋に2発の砲弾が直撃し、舵機に故障を起こしたために「ツェサレーヴィチ」が左に急旋回して自艦隊の列に突っ込んだ結果、全艦船は四散した。
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連合艦隊は四散しながら南下する旅順艦隊を攻撃するが、残った主な艦艇は、「ペレスヴェート」座上の次席指揮官ウフトムスキー少将の指揮下で損傷を受けながらも沈没艦を出さずになんとか旅順に帰還した。しかし、この戦いで各艦の損害を修復することが出来ず、また戦艦「ツェサレーヴィチ」と駆逐艦3隻がドイツ領の膠州湾租借地、防護巡洋艦「アスコルド」と駆逐艦1隻が上海、防護巡洋艦「ディアーナ」はフランス領インドシナのサイゴンで抑留され、防護巡洋艦「ノヴィーク」は日本列島を迂回して太平洋を北上、樺太のコルサコフにまで到達したもののコルサコフ海戦で撃破された。また、駆逐艦一隻が座礁、自沈している。この結果、旅順艦隊はこれ以後大がかりな作戦が出来なくなった。
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参加艦艇 |
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防護巡洋艦 アスコルド 1/350 コンブリック
ドイツのクルップゲルマニア造船所で1900年3月に進水し、その後中国の旅巡に根拠地を置くロシア太平洋艦隊に編入された。1904年8月10日残存艦隊とともにウラジオストックへ脱出中、日本艦隊と遭遇し交戦、大損害を負ったが中立国である中国の呉淞に入港。武装解除されたが終戦により露西亜に返却された。
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戦艦 ツェザレヴィッチ 1/700 コンブリック
本艦はロシア海軍の極東戦力増強のために、1899年〜1903年にフランスで建造された戦艦です。
黄海海戦では積極的な戦闘を避けウラジオストクを目指すことを最優先にした結果、一時は日本側の追撃を振り切るかに見えましたが、艦橋に直撃した「運命の一弾」によりウィトゲフト提督は戦死し舵機も損傷、続く一弾で艦長が戦死し、他艦に指揮の移譲をする間もなく迷走を始めたため、艦隊は大混乱になりました。 |
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