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常陸丸事件・蔚山沖海戦 1904年2月8日、旅順港にいたロシア旅順艦隊に対する日本海軍駆逐艦の奇襲攻撃に始まった日露開戦により、ロシア海軍はウラジオストクを母港とするロシア帝国・ウラジオストク巡洋艦隊の装甲巡洋艦「ロシア」「グロモボーイ」「リューリク」をウラジオ艦隊として、旅順の主力艦隊とは別行動を取らせ、日本に対する活発な通商破壊戦を開始した。
日本軍は主力艦隊の遊撃部隊で上村彦之丞中将を司令長官とする第二艦隊装甲巡洋艦を派遣し、ウラジオストク艦隊を捜索したが、捕捉できなかった。
・常陸丸事件
常陸丸事件は、日露戦争中の1904年(明治37年)6月15日、玄界灘を西航中の、後備近衛歩兵第一連隊本部および第二大隊(第八中隊欠)および第十師団の糧食縦列を乗せた陸軍徴傭運送船『常陸丸』がウラジオストク巡洋艦隊所属の3隻の装甲巡洋艦ロシア、リューリク、グロモボーイに追撃され、降伏を拒否して撃沈された事件である。
この事件により連隊長須知源次郎中佐以下士官全員が自決し、合計1000名余りが戦死した。常陸丸には英国人船長ジョン・キャンベルと数人の英国人が乗組員として乗船しており、共に戦死した。 この事件により国内世論は沸き立ち、連合艦隊、特に日本海の海上警備を担当していた第二艦隊に対して非難の声が向けられることとなった。
上村が濃霧のためウラジオストク艦隊を見失ったと東京の大本営に打電したところ、ある議員は「濃霧、濃霧、逆さに読めば無能なり」と野次った。民衆は怒り狂って上村の自宅へ投石し、上村を露探(ろたん=ロシアのスパイ)呼ばわりした。
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・蔚山沖海戦
8月11日午後、芝罘のロシア領事から旅順艦隊がウラジオストクに向かうとの報告を受けたウラジオストク艦隊は旅順艦隊を援護するためウラジオストクを出港した。
上村もウラジオストク艦隊を捕捉すべく、装甲巡洋艦「出雲」「吾妻」「常磐」「磐手」(以上第二戦隊)、防護巡洋艦「浪速」「高千穂」「明石」「新高」(以上第四戦隊)を出撃させた。第二戦隊は4隻で行動し、第四戦隊は単艦で行動していた。
ウラジオストク艦隊は夜間は単縦陣、昼間は北上してくる旅順艦隊を発見しやすいようにそれぞれ7キロほど間隔を空けた単横陣で航行していた。対馬海峡まで南下し、そこに行くまでに旅順艦隊と落ち合えなければウラジオストクに引き返す予定だった。
8月14日早朝、上村率いる装甲巡洋艦4隻からなる第二戦隊は蔚山沖で南方を航行するウラジオストク艦隊を発見。ウラジオストク艦隊も直後に北に第二戦隊を発見した。ウラジオストク艦隊は南に向けて逃走を図ったが、敵発見の報を受けて南から北上してくる「浪速」「高千穂」を発見、一戦を交えるのもやむなしと北に向けて逃走を始めたため、上村艦隊は急追撃を行った。 |
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5時20分、7800mにまで近づいた第二戦隊は砲撃を開始、ウラジオストク艦隊も応射した。ウラジオストク艦隊は逃走を続けたが砲撃により、後尾を走っていた「リューリク」舵機と汽罐を破壊され落伍した。残りの2艦はたびたび北走したが何度も反転して、「リューリク」の救出に向かおうとしたが失敗した。
上村艦隊はこれを追撃したが11時15分に「出雲」の弾薬が欠乏したとの報告(実際は全ての砲弾が砲側まで運搬されていたのを弾薬庫が空と報告)を受けたため断念した。
上村彦之丞はあまりにも悔しかったらしく、その黒板を参謀から奪い取って床に投げつけたと言われている。
残された「リューリク」だったがトルーソフ艦長を始めとした士官の多くが戦死し備砲の大半が破壊されていたとは言え、第四戦隊との交戦に入るまでの間の乗組員の必死の修理が功を奏したのか、ゆっくりとながら北に進路を向けて逃走、備砲も一部が修理されたらしく「浪速」「高千穂」との間で激しい砲撃戦となった。しかし砲撃で備砲の全てが破壊され、それでもなお魚雷を発射したり衝角攻撃を試みるなど抵抗を続けていたが、戻ってくる第二戦隊と遅れて合流してきた「明石」「新高」を発見して進退に窮し自沈した。 |
蔚山沖海戦で大きな損傷を負った装甲巡洋艦ロシア |
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その後、日本艦隊は自沈した「リューリク」乗組員の救助に向かった。一方、ウラジオストク艦隊は「リューリク」を待つのと船体の応急修理とを兼ねて洋上で停止していたが、「リューリク」が来る様子は無く船体の応急修理も終わったためウラジオストクに帰投した。
ウラジオストクに逃げ込むことができた2隻も船体自体に大きな損害はなかったものの上甲板上にあけられた日本軍の砲弾の破孔の修理は、物資や労働力の不足により遅々として進まなかった。年も明けた1905年に修理を終えた2隻は1905年4月25日に日本列島近海へ軍事任務を帯びて出航した。しかし、「グロモボーイ」は5月11日に触雷し再びドック入りすることとなった。結局これは大局には影響を与えず、これによって日本軍は日本海の制海権を確保することに成功していると見なすことができる。
『出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 |
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参加艦艇 |
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装甲巡洋艦 ロシア 1/700 コンブリック
日露戦争に際しては極東ウラジオストクにあり、他の僚艦リューリク、ボガツェーリ、姉妹艦グロモボイの三隻と共にウラジオストク巡洋艦隊を編成し、通商破壊戦で日本近海を暴れまわった。 日本軍の兵員を輸送していた常陸丸、和泉丸を撃沈。その後蔚山沖海戦
で日本の出雲、吾妻、常磐、磐手からなる第二戦隊と交戦、損傷を負いながらもウラジオストクに帰還した。
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装甲巡洋艦 出雲 1/700 シールズモデル
明治37年8月14日午後4時30分、蔚山沖にウラジオストック艦隊を発見し猛烈な砲撃戦を展開して「リューリック」を撃沈、他の二隻を撃破した。 |
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