我が家のリフォーム(その1)

                  家を建てるまでの出来事  

 今の家を作って30年が過ぎ、自分も家に戻ってきました。

終の棲家と考え、大整理の一環としてリフォームすることにしました。家を建てる時から色々あり、その経緯を書いて見たいと思います。皆さんの参考になれば幸いです。

 

事の起こり

 昭和40年代の半ば、高度成長の最中、日立の町は、人口も増え、若者は結婚して新家庭を持ち、子供も増えてきました。

会社も持ち家制度をつくり、家を建てることを推奨した時代です。

うなぎの寝床のような日立の町では、平地に住宅地を作ることは困難で、太平洋に面した山を切り開き、盛んに宅地が造成されました。

しかし、希望者が多く、何回、抽選に行ってもはずれです。

 そうこうしているうちに、子供も3人となり、社宅も狭くなってきました。

この時、水木海岸の近くの田圃を埋め立てた住宅地の抽選がありました。関連会社が造成し、建築もそこがやるという条件です。 なんとか、当たらぬものかと抽選会に行きましたが、当然、はずれです。

しかし、一番奥の1区画だけは、誰も希望しないのです。なんとそこは、土地が160坪とかで、中々、当時の給料では手が出ない金額です。

どうせ、今後とも、当たる確率はゼロだろう、面倒だ、これを買ってしまえとやけくそで買うことにしました。

 

天の助け

 さて、契約を済ませ、どんな形に家を配置しようか?土地は広いし、自由度は大きいなどと考え、実地を詳細に見てみると、どうも、160坪などは無いようです

求積図を持ってこさせて、計算すると、地形が多角形で三角形毎に計算していくのですが、最大の部分の計算が間違っているのを発見!!

なんと一桁計算が間違っています。結局、120坪をすこし切る大きさでした。

土地が大きい為、坪単価が安めに設定されていたので、実際の面積で再契約して、なんとなく得をした感じです。

 

オイルショック

 時は、昭和48年、夏頃から家の間取りなどを打ち合わせ、ようやく設計図も出来、年末に契約の運びとなりました。

そして、契約を交わした昭和49年12月、オイルショックです!!

土地会社がやってきました。「申し訳ありませんが、契約価格ではとても建築できません。まだ着工前なので契約を取り消させてください。お建てになるなら、当社でなくても結構です」と勝手な言い分だが、皆困っているのだから仕方あるまいと、一からやり直しです。

 どうせ建てなくてはならないのだから、建てるなら今の方が良いだろう。これから作るものは価格が上がるが、すでにあるものは、変化が小さいはずと、思っていると、同じ社宅にいた人が家を建てており、それを見に行って、その大工に頼んで建築することにしました。

 大工は、同じ歳、いかにも職人で長持ちする家を俺は作ると頑固な言い方で、その辺が気が合ったのでしょう。

 

重なる災難と対策

 昭和49年の春、家の再設計も終わり、さて、どう建てようかと図面をもって基礎の位置の確認に出かけました。

すると、前の家が建築にかかった所で、柱を建て始めています。見ると、どうもやたらと柱が高いのです。

建築主のN氏は、大学の先輩で研究所の人、建築学科の同期生に設計を頼んだとか。

普通、屋根は後方に流れるのですが、この家は、前方に流れて、後ろが切り立っています。

これでは、いかに土地が広いとは言え、家を一番後ろに下げても、冬には殆ど日が当たらなくなってしまいます。

とにかく、ロフトになっている訳でもなく、ただ、屋根が高いだけで玄関は上まで吹く抜け、螺旋階段で二階に上がるという構造です。 後で奥さんが、冬は暖房費がかかって、寒くて大変と言っていましたがーーー

まあ、建築法規には触れてはいなし、先輩でもあり、仕方がありません。そこで、設計図をコピーさせてもらい、対策を考えました。

前の家の屋根の高さを元に、冬至の頃の太陽の軌道を書いてみました。そして、我が家の配置を色々と変えてみました。

すると、どうやっても一階の西側の客間と居間の辺りは、昼前から日が当たらなくなります。

これは問題です。そこで、基礎の高さを高くすることにしました。高い基礎に家を建て、後から庭に土を入れることにしたのです。

大工と相談すると、縁の下は深い方が家は傷まないなどと言い、その方が良いですよと、結局、50cmほど基礎を高くしたのです。(当時のコンクリート基礎は、45cm位ですから、結局、1m近い高さです。結果として、畳を上げるとその下は腰をかがめれば歩くことが出来ます)

        

        迷惑な隣家(三角の部分はなくても良い。中はがらんどう、今は引っ越して無人)

最後の問題点

 田舎で育って、畳の家が好き、縁側から出入りが出来、もの入れは多いほうが良い、と言う訳で、書庫(後で娘の部屋になってしまったが)と台所などを除き、部屋は全て和室です。

大工も昔風の家が好きで、「壁は土壁が良いんだが、金がかかる。変な断熱材など入れると木が湿気で蒸けて長持ちしない」などと言います。

 しかし、家の構造で、一箇所だけ気になっていた所がありました。それは、2階の位置が1階より、半間下がっていることです。ここに通し柱を入れればよいのですが、居間と客間を田舎風にふすまをはずせば全体が繋がるようにしたのでこうなったのです。

ここは、本来、正面側に廊下を置き、一階と二階を重ねるべきであったのです。

これは、どうも問題が起こりそうだというと、大工は、そんなことは無い。お神楽と言ってこんな構造はいくつも作ったなどと言うのですが、「ここは、やはり問題だ、後で変形するだろう」というと、「大丈夫、大丈夫、」と言うので、「それなら任せた、問題があったら何とかしろ」ということでそのままにしました。                                                   

 

家の弱点――梁は1尺だが柱一本で支える。継ぎ手が問題)   家の梁と柱の配置

それから30年

 台風で変な方向から雨が吹き込んで雨漏りなどもありましたが、セメント瓦の塗装、畳替えなどの定期補修や、書庫に作った部屋の娘の部屋への改造増築などもありましたが、ただ一点を除いては、たいした事もなく歳月が過ぎました。

それが、最初に大工に問題といった居間と客間の境目の部分です。居間側は2階の荷重を支える1尺の梁が縦横に通っていますが、荷重で客間側にわずかに下がり、欄間付近の壁に隙間が出来、居間側の下部のサッシのレール部分が持ち上がったのです。

結局、この部分を加工し、壁を塗り替えたのですが、問題は地震です。茨城は、大きい地震はありませんが、小さい地震はしょっちゅうあります。

2階を息子たちに占領され、下で寝ていたのですが、かなり大きく感じ、それが年とともに大きくなっていくようです。また、この部分の一階の屋根と壁の雨仕舞がおかしくなり、大雨などの時に雨漏りがすることがあります。

電気配線も居間と台所が一緒で、しばしば、過負荷でブレーカーが落ちるようになりました。

新しく、家を建てるのはもったいないし、大工がやってきてリフォームを勧めることもあり、それならリフォームだということにしました。