名古屋の思い出

5:自転車で行った町 大須観音辺り

 

 名古屋に赴任して、総務が白壁のマンションを借りてくれた。このマンションには、いくつかの関連会社の幹部連中も住んでおり、よい所である。

名古屋という所は、出かけるのは意外に不便である。地下鉄とバスが市内の主な交通手段だが、初めての人には分かりにくい。

 そこで、中古の自転車を買った。名古屋のたいていの道路は歩道と自転車道が共用で幅も広い。平らな町で自転車を使う人も多く、あらゆる所が自転車だらけといった有様。

 まだ、免許を取ろうと言う気もなく、かなり遠くまで自転車で出かけた。まで数kmで東急ハンズなどで、家の中で使う部材などもって帰るにはこれが一番。

 一番、何回も出かけたのは、大須観音の辺りであろう。


ここまで4km位である。ここは、東京で言えば、秋葉原御徒町を一緒にして小さくしたような所で、元は大須観音の門前市から発達したという。

地下鉄大須観音駅上前津駅の間の高速の南側の一帯である。自転車で栄方面からパルコの前を通り、赤門通りにいくのがいつものルートである。ここから大須観音方向に向かっていく。

 

通りの様子

名古屋の駅地下のような町ではなく庶民の町で、名古屋周辺に住むブラジル人なども大勢来ている。第一アメ横ビルとか、第二アメ横ビルなどというのもある。

 なんでここに行ったかといえば、この一帯は、アキバと同じ電気街があり、PCの部品などを売る店が多く、アキバと同じ系列の店がいくつもあるので、価格もアキバなみだからである。

 狭いアーケード街もあるが良くしたもので自転車を置くには不自由しない。それはパチンコ屋があるからで、そこにはたくさんの自転車がある。

うどん屋、鰻屋なども色々あるが、CoCo一番のカレーなどをはじめて食べたのもこの辺りだった。

 数年すると会社の運転手が、「鹿島さんの方が、栄や大須の道を良く知っている」と言い出す始末。

 大須観音(おおすかんのん)は、真言宗智山派の別格本山。本尊は聖観音。寺号は「北野山真福寺宝生院(ほうしょういん)」といいます。

元は、後醍醐天皇岐阜県羽島市桑原町大須北野天満宮を創建。同社の別当寺の真福寺が当寺の始まりである。

その後、徳川家康の命令で犬山城主の成瀬正茂によって現在地に移転、明治25年の大須の大火と第二次世界大戦の空襲による2度の焼失を被り、昭和45年)に再建された。

門前町としての大須は古くからの繁華街で、戦前は、大道芸、曲芸などが連日行われ、大正時代までは遊郭もあり、浅草的な雰囲気であったようです。

戦後、映画の発展で大須も復活したが、その衰退とともに、昭和50年代には、古い商店街になってしまったのが、小生がいた時代には、アメ横ビルなどによる電気街的な発展、門前町の風情や、古着屋なども多くなり、年寄り、若者や外国人なども多く訪れるようになってきていました。

しかし、電気街としては名古屋駅周辺に大型店などもでき、PC自作の波が去ると、マニアックな店はアキバのような客も少なく、しばらくすると中古のPCなどを扱う店に変わったり、廃業したりした所が増えていた。

 むしろ、御徒町浅草的な雰囲気が強くなってきていた。しかし、名古屋という町は、地下街が発達していて、たいていはここで済んでしまう。地上にある商店街といては貴重な存在といえよう。