敗戦前後の一小学生             多田狷介

 1944年の春に水戸市立五軒小学校1941年から1947年の間、小学校は国民学校と改称されていたが、便宜上、小学校の名称を用いる。五軒小学校は、今は近所に移転して、その跡地には水戸芸術館が建っている)に入学した。
以後のわたしの人生は、黒板に向かって座っているか、黒板を背にして立っているかのいずれかということになった。

 母の手作りの防空頭巾(綿が入っている。かぶると頸部もカヴァーし肩先までおおう。学校名・学年・組・氏名、血液型を墨書した10p×5pほどの白布が縫いつけてある)。
これを斜めに肩から掛ける。やはり手製の小さな掛けカバンを反対側の肩から斜めに掛ける。
このカバンには空襲等で怪我をしたときの備えに、包帯・赤チンキ・メンソレータム等が入れてある。
背中の真ん中にはランドセルを背負ったはずだが、これに関してはあまり印象がない。通学班が組織され、年長の生徒が長になって数人組をなして登校した。

 国語の教科書冒頭見開き2ページ。数人の男女児童が一列に並んで中央の昇る朝日に向かって諸手をあげているところを真後ろから描いたカラーの絵。この絵を下地に「アカイ アカイ アサヒ……」の教科書体の大きな活字。
担任の女教師の姓名は今に記憶している。悪い先生ではなかったはずだが、わたしは学校にすぐにはなじめなかったのだろう。
教室の窓から校庭に飛び降りて家に帰ったり、止める先生に武者ぶりついたりして暴れたこともあった。

 五軒小学校のころのわずかな記憶。寒い冬の日の休み時間、校庭に出て、I君と二人並んで、日のあたる校舎の壁にはりついて足踏みし、震えながら日向ぼっこした。
I君が手袋の片方を脱いで貸してくれた。二人それぞれ手袋をした片手でもう一方の素手をこすったり、素手に息を吹きかけたりした。I君を優しい人だと思った。

2年に進級する春、わたしは霞が浦南岸の母の実家にあずけられた(いわゆる縁故疎開)。
母の実家は古い農家で、一人娘だった母の父母は健在だった。当主(母の兄)は、
30台後半で一兵士として召集されて「満洲」にあり、その妻が家を守っていた。
わたしより上級の二人の従兄弟たちがいて、一緒に村の小さな小学校に通った。

 着物に下駄やわら草履で、教科書と弁当を茶色の木綿の風呂敷にくるんで来るような子供も多かった。先生方は、この風呂敷包みをベルトのように腰に巻いてはいけない、斜めに肩から掛けて背負えと注意したが、どういう理由だったのだろう。
以下はわたしも含めてだが、雨の日は、傘が足りないと綿入れの半纏を頭からかぶって登校した。
また雨の日は裸足で登校した。道は白いきれいな砂質土で、学校に着いたら、校庭の隅のポンプ井戸の水で足の砂を流し、木製の渡り廊下をペタペタ歩いて教室にはいるのだ。

親元を離れ、さびしく心はすさんでいたのか、学校ではよくけんかをした。
上級の従兄弟たちはまたかとあきれたような、あるいは珍奇な野獣をみるような表情で遠くからわたしを見守っていた。帰宅しても大人たちに告げ口などはしなかった。
たいまつを燃しての夜間のドジョウ刺し、竹筒を湖に沈めてのウナギ漁、下駄大の桐材に厚紙の帆をつけ、数十メートルの凧糸の延縄を引かせてのボラ釣り、稲穂の餌の仕掛けの冬の雀捕り……従兄弟たちはいつもわたしをいっしょに連れ歩いてくれた。

 三年に進級する春、敗戦後の焼け跡の水戸にもどった。
I君は流行病で亡くなっていた(I君は亡くなったが、とくにI君の母上とわたしの母とは近年まで親しく往き来した)。
 二人の従兄弟も今は鬼籍にある。


(常陸国住人後記)

これは多田さんのご好意により日本女子大学史学科の同窓会の会報に記載したものをお許しを得て記載しました。
子供の頃の魚とりなど田舎で過ごした小生など本当に懐かしいものでした。