奥の細道で感じたこと

 のどの訓練の為、「奥の細道」を一節ずつ毎日読むことにしている。

この旅の道中は、江戸を出て、仙台、平泉から日本海側にでて、山寺、最上川を下って、出羽三山、酒田、象潟に足を伸ばし、日本海側を下って大垣に至る。

それぞれの地方の名所、旧跡などを廻るわけですが、今までは、その描写や俳句などに感心してきた。

しかし、今回読んでみて、気がついたことが一つある。

それは、旅の途中で、道路や宿などにずいぶん苦労している中で、太平洋側と日本海側に差があるということである。

日光街道から奥州街道、そして、山越えして尾花沢にいたる道筋では、ずいぶんと宿などで苦労をしている。

 「蚤虱、馬の尿する 枕元」といった具合である。

そして、江戸ではすでに名声を博していた芭蕉も良く知られていない感じである。

しかし、酒田に入り象潟に行き、帰路につくと金沢から敦賀へ抜けるのに、難所があって、困難はあったが、宿に困ったりした形跡はない。

 「ひとつやに 遊女も寝たり 萩の月」

などと、「奥の細道」の中でもすこし変わった文章を残している。

 また、こちらの各都市には、芭蕉の名声も伝わっているようである。

また、山中温泉からは同行の曾良が腹をわずらって先に帰り、一人旅になったが、いままでのぼやきもあまりないことも旅が楽であることを示すのだろう。

 このことは、やはり、日本海側が古代より、海路を使った交通が盛んで、要所要所に港が開けていたことを示すのだろう。 

 江戸時代には、蝦夷地からの海産物、北国の米などが北前舟で運ばれ、帰り舟には、都などの産物が運ばれて海運が盛んであった。

彼の旅は西行能因などの先人のたどった道をなぞった所があるが、太平洋側は、もっと北まで、彼らの足跡があるのに行っていないと言うことは、そこまで行って日本海側に出るには、道が険しかったと言うことか?

また、基本的には、太平洋側は陽、日本海側は陰とみなしているようであるが、それは、全体の構成上そのように見たのだろうか

 また、記述も、象潟まで行って旅の目的を達成して、後は帰り道と言うことで気が楽になったのであろうか

象潟から見た鳥海山