ふるさとの我が家の辺り

 鮎やら猫やらと書いていて、高校同期の多田さんの子供の頃の思い出話などを頂いたりしていると、子供時代を過ごした家の当りを懐かしく思い出した。

 ここは、戸多村と言うが、明治の初め、水戸藩下江戸、大内、田崎、戸村と言った村が併合して、戸多村となり、昭和30年に、神崎村・額田村・菅谷町・五台村・戸多村・芳野村・木崎村が合併して、那珂町となり、平成17年に瓜連町を合併して、那珂市となった。

那珂川にそった細長い村で、村の中央部が田崎と言うが、我が家はそこの中の川端と言う、那珂川に近い部落である。

那珂川沿いのいくつかの村は、江戸時代の初め、水戸藩井上円水に命じて造った小場江用水の潅漑地である。

小場江については、下記を参考にしてください。

    わが故郷の小場江

 本家(本宅)は鹿島の一族で部落の大半が構成されており。曽祖父の代?に分家して、この家ができたと言う。分家であるから、田畑は少なく、中川に船を浮かべて水車を回して精米をしたり、小さな質屋、雑貨店などを経営し、その後、モーターで駆動する精米所を始めた。

 部落の中でも、一番北で那珂川に一番近い少し高いところにあるが、戦後の昭和22年の大洪水で、堤防が決壊した。皆で船で避難していたが、水も引き始めたので帰っていくと、家は流されてはいなかったが、水が引くと段々と傾いてきた。

水が引くと母屋の客間の下までえぐられて、傾いたのである。

すぐ下が、沼のようになり、そこから魚釣りができたほどである。一番後ろにあった古い納屋はつぶれてしまい、しばらくして、どけてみると中に閉じ込められていたヤギは生きていた。干草やわらが積んであり、水で湿っていたのを食べて生き延びたらしい。

 堤防工事が始まり、トロッコがしかれ、工事を終った夕方からは、子供達の絶好の遊び場となった。

ここに書いた配置図は、堤防が完成した後の頃を思い出して書いたものである。記憶が薄れてしまった所もあるが、大体は覚えていた。

今は、なんと言っても、Googleの航空写真で、大体の位置なども分かるが、おじが家を建て替えて住んでおり、母屋他はすべて無くなっているので、寸法などは正確ではない。

 


   
昔の我が家の辺りと配置




    今の叔父の家(昔の家は何もない)

 疎開した当初は、隠居所に母と妹二人と住んでいたが、親父は東京にいて、発疹チフスで亡くなってしまい、母屋に皆で住むようになった。

 祖父は働き者で、あらゆることをやっていた。家の仕事のほかにも、堤防の所にある水神様の祠を守り、四方柱や注連縄、節季の供物なども管理していた。

家は、農地が少ないので、牛や馬はいなかったが、精米所をやっていた関係で、米ぬかやふすま、籾殻などで出る。籾殻の炉で煮炊きの殆どはやっていたし、豚、ヤギ、鶏などは常におり、犬、猫も飼っている。色々な果樹もあった。

しかし、トイレも風呂場も今では考えられないような配置である。冬など寒いので、小便に行くのが大変。隙をみて、雨戸の節穴からしたりもした。そのせいか、寝小便小僧でもあった。

 精米所をやっていた関係で色々な工具などもあったから、子供の頃からこれらを使った工作なども色々とやったものである。

父母や、母方のおじなども学校の先生で、本には事欠かなかった。 育つ環境としては、恵まれていたと思う。