RAWとJPEG

 画像の世界の銀塩、RAW,JEPG,音楽の世界のレコード、MPEG.MP3など、元の風景や演奏をどのように記録するかパソコンなどの発達で変わってきました。

味覚の世界も同じで
偽者、混ぜ物で本物らしく見せかけています。しかし、そもそも、本物とは何でしょうか?

人間の基本的な感覚である六根眼、耳、鼻、舌、身、意)のどれをとっても、それは個人に固有のものでしょう。それが、生まれてから、現在に至る過程で周囲の刺激で学習してデータベースが出来、各人固有のものになっていくと言うことでしょう。

 ある時、音楽の話になって、色々という人がいたので、貴方は今聞いている音が、若いとき聞いていた音と同じと思っていますか?と聞いた事があります。「同じに決まってるだろう」と言うので、人間ドックで耳の周波数特性を調べたら違っているはずだ、ただ、同じに聞こえていると感じているだけだよといったことがあります。

 私は、自慢ではありませんが過去にかなり色々な本を読んでいます。雑学的な知識のデータベースが出来ているので、新聞、雑誌、本などを大体一時間600円で読みます。

それで読めないと感じた本は、読む価値が無いか(例えば文庫本で600円、大型の本で同じものが2000円などという場合)、繰り返し読む価値があるか(例えば、学術書など)です。

したがって、前者は買わず、後者は必要か、面白ければ買うことになります。

このことは、一つの判断基準ですが、先入観となって何かを見落とす危険もあるでしょう。

 写真家、音楽の鑑賞家、料理評論家、香水の判別家、色男などなど、なんでもそうでしょうが、皆、このデータベースを持っているのでしょう。

それらの人が、素晴しい(sense of wonder)を感じるのは、今までの自分のデータベースを越えているもの、あるいは、それと共鳴しかつ今まで経験していなかったものではないでしょうか。

 もう一つ重要なのは、これらの感覚同士の共鳴ということでしょう。居酒屋でかん酒で一杯やっている時に、我々の年代は、刺身を食い、演歌が流れ、和服の酌婦がいて、それにあった絵などが張ってあるというのがいい雰囲気になりますが、中年には、若者には、とそれぞれに異なるものになるでしょう。

芭蕉の奥の細道の中の句は、文章と一体になって最大の効果が出ているのだと思います。

また、時の流れが、記録そのものを変えてしまうかもしれません。あおによしと言われた奈良の都の東大寺も建設された時と今ではその色彩は全く違うものです。

廃屋の壁にモナリザの本物がかかっていたとして、本物と見抜ける人はいるでしょうか?

 画像の発色、記録の処理などがどのように行われようとも、それを撮影した人の感覚をそのまま表現すること、さらには、伝えることは困難でしょう。

したがって、私はあまり、難しく考えることも必要ないと思っています。今書いているHPの記事もそれにどのように共鳴してくれるのかが分れば満足です。(中々分らないのですがーー)

画像にしても、自分が良いと感じ、相手に何かを感じてもらえればよいと言うことではないでしょうか。

 しかし、六根の最後のというものには、また、別の難しさがありますね。