大運動会       

 日立工場の運動会と言えば、昭和30年代から50年代、NHKのニュースでも取り上げられるほど、大規模なものであった。関連会社を入れると、各集団約2000名以上で、4集団が対抗戦を繰り広げる。部長クラスが団長を務めるが、最下位になるような奴は、幹部の資格がないなどと言われるから、各団とも必死になって練習をする。

運動会の一ヶ月前位からは、工場に電話をしても、「運動会の練習です」と言われれば、営業もしょうがないと言った時代である。

 応援もまた派手で、ある人が応援を担当した時など、航空会社の友達に頼んで、セスナ機を海上に待機させ、入場の合図とともに、幹部席に向かって突っ込むように飛行させたら、後から、落ちたらどうするんだと怒られたとか、話題に事欠かなかった。

 工場の規模も小さく、そこまでは、行かないものの我々の工場もまたその伝統を引き継いでいた。

もう、時効だから、色々と思い出して書いてみた。

入社当時は、製造部門に若い人が多く、製造部が中心に運動会が運営されていた。

ともかく、設計は、特に忙しいから、当てにならない。単なる納期のことなら、お客に、「工場は運動会でちょっと立会い試験を延ばして下さい」などという営業の猛者でも、事故では、そうは行かない。したがって、特定の運動会の戦力となる人を除いては、団体競技など代わりがあるものに出ることになる。

そうなると、小生など、小学校以来、走れば貧血、100メートル16秒台では、団体競技の予備軍以外には、お呼びがかからない。せいぜい大玉送りの予備軍である。

 しかし、時が移り、昭和50年代となると、オイルショック後などの何回かの不景気で、製造部門の若手人員は大幅に減り、特に、小生の居た変圧器部門では、部対抗の綱引きをやっても設計に負けるほど高齢化が進んでしまった。

 当工場の運動会も、青団「変圧器、技術、資材」、赤団「遮断器、経理」、黄団「送変電、受変電」、緑団「製缶」となって居た。各団、外注も含めて、不景気で減ったとは言え、約1000名近い人数であった。

まず、大会本部が、各団毎に、団長、副団長、主将、副主将、団ミス、競技担当者、会計責任者(これが重要)などを決め、ニックネームをつける。

これはテレビの子供向け番組の名前でこの年の青団「あられちゃん」

各団は、結団式をやり、運動会本部の競技ルール書を見て、作戦を決め、選手を選抜する。

不景気になって以来、さすがに、運動会の練習の期間は決められており、金も一応、各団、いくらと言うことに決められてはいた。

 各団の対抗意識は、大変なもので、勝つためにはどうするかを競技取りまとめ者は必死になって考え、練習も他の団に分からないような所を探してやる。

当然、他の団の状況を探るために、スパイを放ち、練習状況を観察して、作戦会議に報告する。製造部の一角には、青団本部があり、団長以下、毎日、出かけていって、状況を聞く。

ここは、お祭りの本部と同じで、「**(株)金ーー円也」などという紙がぶら下がっている。(酒を持ってくるところもあるがそれは当日のお楽しみである)

 さて、前日ともなると、各団が集まって、出陣式を行い、団長が激を飛ばす。

  

出陣式の様子

そして、陣太鼓を竹ざおにぶら下げ、叩きながら、団長以下、各関係職場を回って、決意表明と全員参加の依頼を行う。最後に、団本部で、各競技担当が、他団の状況を含めて、自分の順位の予測を行う。

 また、団のニックネームによる大きなバックデコがつくられ、応援席の後方に、多くの幟に囲まれて据え付けられる。仮装大会もあり、それぞれにマスコットを作って優劣を競う。

青団では、設計外注に書割のうまい男が居て、製図はお休みして、これを作る。(終わると、小学校と契約していて、運動会に使ってもらう)

応援の小道具、大道具も皆で作り上げてしまう。昨年のヤッターマンでは、かなり大きなものを作った。

前年のバックデコ

  

前年のマスコット

今年の各団

また、入場行進などの演奏は、運動会本部が、全国大会にも良く出る泉が丘中学の吹奏楽部に頼んでいるが、それが終わると、青団の応援に来てアニメの主題歌など演奏してもらう。

 一方、工場の運動会本部も大変である。数日前に、机上での模擬運動会を行う。

「6時に開会の花火を打ち上げました」から始まり、入場行進、開会式、各競技、

――と閉会式までを関係者が時間とやり方を説明し、問題ないかを検討する。

前日の天気予報をもとに、夜、雨が降る危険性があれば、ダンプ車に砂を準備しておき、ぬかるみが出来ないようにする。(実際に、前夜の雨で大変だった)

当日は、先輩を招待したり、当工場が支持する国会議員市長までやってきて大変な騒ぎである。

入場行進家族もみな集う

 青団は、人数でこそ他の団に負けないが、如何せん、高齢化集団である。

君など、以前、運動会の最後を飾る総員リレーの担当となり、各団とも当然、関連会社や、外注先から選手を調達するが、いささか、拡大解釈して、近くのシオン大学の陸上部の学生まで動員して、青団始まって以来始めて、一位となった。

 その後、他の団がこのようなことをやって、ばれて問題となり、所員以外は一切だめと言うことになってしまった。

 こんな努力??をしても、青団は一回も優勝した事がない。

小生が部長になる前年の運動会では、一種目3位、他すべてビリと言う屈辱的結果となった。当時の工場長から、全部ビリなら特別賞を出そうかと言った話もあったと言う位である。

 こんな屈辱はない。来年は、小生の番である。負けるにしても、誰からも文句が出ない負け方をしたいと考えた。

そこで、運動会終了直後から、一年後の対策を考えた。

まず、人材は決まっている。必要なのは、金と時間である。練習は、他の団に先立つこと、約1.5ヶ月前から始める。その為に、設計を早め、材料納期を早め、納期や立会いを前後にずらす。

これには、なんと言っても、資材部と技術部が一緒と言うところが強みである。

また、緑団は、製缶部門であるから、作業時間などあまり自由にならない。

したがって、練習で発生する不働時間は、小生がグループリーダー時代から面倒を見ていた。これも考えておかねばならない。

それには、金が要る。一年間で、金に換算してうん千万円の余剰を蓄える。

このようなことができたのも、昭和42年くらいからの研究開発、設計改善、設備投資などで、大幅な作業時間の低減ができた為である。大容量変圧器の作業時間は、3万時間以上であったのが1万時間以下になった。これに人員低減は追いついてこないから、過剰人員を抱えていて、人件費を製品で負担する。これを予算段階で案分するのである。

当然、材料費も低減されており、こちらにも余裕ができる。個別設計、個別原価計算の製品だからできるのである。当然、設計者の負荷は大きくなるが、このように設計を改善するのは楽しいもので、トップが率先してやれば文句を言うものもいない。

これらは、あまり公には出来ないから、人数を限定し、関係者を絞って対応することとした。

一方、あまりの弱さに、本部では、青団でも勝てるように、徒競走の種目を減らし、奥様対抗競技など団体競技を増やす事を考えてくれていた。

 しかし、なんと言っても、運動会は徒競走種目で決まる。しかし、上位100人の100m走った時の平均タイムが、一番速い団と、0.何秒も違っており、こればかりは、どうにもならない。したがって、幾つかの徒競走競技は、最初から、捨ててしまうほかない。

このような戦略の下、下期の予算が終わり、さあ、運動会の練習である。(正規の開始期限より一ヶ月近く早い)

団体競技は、昼休みに人を集めて、バスを準備して、それで離れたところのグランドを借りて実施する。生産や納期の調整は早くからやってあるので、あまり問題とならない。多少の問題が生じても、運動会の名の下に、皆が、練習から帰って、残業で必死に挽回する。

これらに対応する作業時間は確保してあるのだ。

奥様競技は、奥さん方に評判のよさそうな人を競技担当にし、午後、タクシーで子供とともに何処かの体育館を借りておいて、そこに連れ込む。

小さい子供は、会社の女性達に幼稚園を借りておいて、そこで面倒を見させる。

女性達は、将来の育児の練習、幼稚園は園児の獲得と一石二鳥である。何回かに一回位は、競技担当が、慰労会を行う。

軍資金は豊富にあるから、奥様費用など、後は、どのように処置するかの問題である。

奥様競技の選手たち

 このようにして、秘密裏にやっていたのであるが、ひょんなことから、工場長にばれてしまった。それは、団体競技に行くバスは、外で待っていることになっていたものを、交通の邪魔になるためか、製造部の近くが良いと誰かが言ったのか、昼休みに、製造部の傍の構内まで入ってきてしまったことによる。

そこは、すなわち、工場長室の下であり、バスには、観光旅行ではあるまいし、「青団様御用」という札をぶら下げてある。

 早速、工場長から呼び出しがかかり、「君、あれはなにかね?」と言うので、「運動会の練習です。お分かりでしょう」「そうかね」と言う会話で終わりである。

工場長自身、日立工場の運動会で、もっと、色々なことをやってきた経験もあり、昨年の屈辱的敗北を知っているからである。

 そうこうしている内に、運動会が迫ってきた。ある団体競技で、担当者が、新しいやり方を考え出し、秘密裏に練習していたのが、他の団に見られて、問題となった。

本部の集まりで、各団の団長連中が、あれはルール違反だと言い出した。

しかし、ルール上の違反点は見当たらない。すると、他と違うやり方をするのはおかしいとか、色々なことを言う。

赤団黄色団の団長は、皆、小生よりも先輩であり、圧力をかけてきたが、ともかく、やり方を工夫して悪いと言う法はない、と突っぱねて、そのままと言うことになった。

緑団は、不働時間の面倒など見ているから、一応、中立である)

 さて、やるだけのことはやった。しかし、勝利へのプレッシャーからか、奥様連中も、新しいやり方を考えた競技でもミスを連発し、残念ながら(実は、予測してはいたが)総合最下位には変わりがなかった

これにより、次回から、もっと金を使わなくても勝てそうだとか、今までは、習慣的に特定業者に出していた金を入札制として、大幅に減ったとか、奥様方の実戦能力とか、ご意見とか、色々な意見もあり、皆が、計画と戦略を考えるようになり、一致団結する下地が出来たように思われる。

 その後、青団は、総合2位まで行ったこともあるが、収益も悪くなり、運動会も廃止となってしまった。

集団の力は、フォーマルな戦いのみで発揮されるのではなく、このようなお祭りもまたそれを発揮する大きな要因となる。集団の力が衰退していく時、お祭りもまた衰退していくのである。伝統ある祭りと言うものを作り出し、残していくことが集団の活力維持の為に必要なことではないだろうか。