沖縄紀行(2)

スタート

 今回の旅行は最後まで迷ったが、これを逃すと全都道府県をドライブするという目標が達成できない。しかし、運転と歩くのとを両立させる自信もない。

結局、運転は娘にも頼ることとして、女房と3人で出かけることにした。

娘は予定があって、2/26日に遅くしか出かけられないので、夜行バスで羽田に来ることにして、こちらは、羽田に宿泊して合流することにした。

2・27日、8:45発としたが、もう一本早いと余裕もあったが、土曜日で、座席が無くこれにした。

 宿泊は、「羽田エクセルホテル東急」で第2ターミナル出発ロビーと直結しており、ホテルを出ると出発ロビーである。便利だが、いささか高い。

ホテルの窓の下は空港

娘は、7時前について、一休み。

朝のテレビで沖縄那覇近くでマグニチュード6.9の地震があったというがはて?と思ったが予定通り那覇に着いた。

  

紀伊半島の最南端あたり                           那覇空港

しかし、ここからが予定外。まず、娘のキャリーバックが最近の規制で機内持込不可となり、これを出すのに時間がかかり、続いて空港から日本レンタカーまでの連絡バスが、休日でレンタカーを借りる人が多く、1台待ち、更に車を借りる手続きでも時間がかかる。

レンタカー屋の横のファミリーマートでめいめい昼飯を買って食う羽目になる。

結局、車を借りて動き出したのが13:00.

 確かに、沖縄は交通手段が少なく、車社会である。

 

波の上宮

 那覇空港を出て、すぐの川を渡った港と海を見渡す丘の上にある神社。

海から見た波の上宮(雑誌より)                波の上宮から見た那覇港方面

沖縄総鎮守「なんみんさん」と呼ばれ親しまれてきたという。

創祀年代は不詳だが、伝説では、昔、南風原村に崎山の里主という者がおり、毎日釣りをしていた。

ある日、浜辺で光る霊石「ものを言う石」を見つけた。それから、この石に祈ると不思議と豊漁となった。

これを知った諸神がこの霊石を奪おうとしたので、里主は波上山(花城 ハナグスク)に逃れた。その時に神託があった。

「吾は熊野権現也 この地に社を建て祀れ 然らば国家を鎮護すべし」

そこで、王府に奏上し、ここに社殿が創建されたという。

 ここは、琉球王府から特別の扱いを受けた8つの官宮の筆頭である。

(8つの官社は波上宮沖宮識名宮普天満宮末吉宮八幡宮天久宮金武宮

  

一の鳥居                                  拝殿

 明治になって、官幣小社となり、明治天皇なども来て栄えていたが、沖縄戦で全てが灰燼となり、戦後、ハワイ移民の寄付などで再建が始まり、平成5年に全てが再建された。

昭和天皇もここを訪れる予定であった昭和62年、病でこられなくなり、その言葉の碑文もある。

昭和天皇の言葉

 

首里城周辺


(案内書より)

 

 玉廟(たまうどうん)

 那覇市内を抜けて、首里城に向かう。傍の駐車場に車を預け、まず、道路の反対側を少し下ったところが玉廟(たまうどうん)である。ここは琉球王家の墓で世界遺産となっている。

  

塀で囲まれた中に、3つの玄室があり、中室(汁乾室)は洗骨前の遺体を安置する所、東室は王と王妃の墓、西室は限られた王族の墓である。

  

        3つの玄室(案内書より)                          玄室のシーサー

沖縄戦で大きな被害を受けたが、その後、修復された。

沖縄の墓は、まず、遺体を一定期間安置して、その後に骨を洗って骨壷に収めて収納する。ここにも多くの種類の骨壷がある。

     

  

入口のガジュマル

また、一般の家も崖などの至る所に、立派な墓がある。海から見ると、砲台のようにも見えるため、沖縄戦で破壊されたものも多いと言う。

 首里城と園比屋武御嶽石門

 玉廟の前の坂道を登っていくと守礼門である。この辺りは、土曜日と言うこともあって観光客も多い。中国人もかなり多かった。王朝時代の衣服を貸して記念写真を撮る店もあり、結構はやっているようである。

   

守礼門への道(多くは中国人)                           琉球衣装

守礼門にて

守礼門からすこし上ると歓会門が見えてくる。その坂道の反対側に、世界遺産の園比屋武御嶽石門(そのひゃんうたきいしもん)がある。

   

園比屋武御嶽石門

国王が出御する時道中の安泰をこの門の前で祈願したという。

 歓会門は、首里城の正門で中国の冊封使などを迎えるために歓迎の意をこめた名前。

坂を上っていくと、瑞泉門で、門の横の沸き水の龍樋(王族などの飲料水となっていた)にちなんで名付けられた門。

  

歓会門から瑞泉門へ

    

龍樋と冊封碑

龍樋の傍には、中国から来た冊封使がこれを賞賛した書の言葉が碑になっていた。(冊封七碑)

                

                                瑞泉門辺りからの遠景

進むと漏刻門で、ここに水時計があり時間を測っていた。また、下馬門でもあった。

  

漏刻門                                    万国津梁の鐘

ここを入ると、日影台と言う日時計があり1739年から廃藩置県まで使われていたということです。その隣に、正殿に掲げられていたという万国津梁の鐘のレプリカが供屋という建物の中に置かれている。

 ここから広福門を通って下之御庭に入ると、幾つかの役所の建物などがあり、祈祷所でもある首里森御嶽(すいむいうたき)がある。

   

琉球の舞踊

そして最後の門、奉神門を通ると南殿、北殿、正殿に囲まれた御庭に出る。この門には3つに入口があり、中央は王が通るところ。

    

奉神門                              正殿(残念ながら塗装中)

北殿南殿は中は展示場になっている。南殿の隣の書院から見る庭は、日本のものと雰囲気が違う。正殿の中は、玉座など昔の姿を再現してあった。

    

書院からの庭園                                 玉座

   

正月の奉賀式の模型                           出口となっている右掖門

 

斎場御嶽(せーふぁうたき)

 首里城には、十分な余裕を取っておいたので、遅れは20分まで短縮された。

首里城を離れて331号線に乗って、海岸線を進み、知念岬方向に行く。岬を回り、山側にすこし入ると斎場御岳である。

琉球王国最高の聖地とされ、沖の久高島は、琉球かいびゃくの神「あまみきよ」が上陸した所といわれ、国家的な祭事には、この島の白砂を持ってきてここに敷き詰めて行った由。

その最も大きな儀式が、巫女である「聞得大君(きこえおおきみ)」の就任式であったという。

 ここに入るには、ウローカーというみそぎ場で身体を清めたというがここへの入口は、がけ崩れなどで今はふさがれている。

入口の御門口(ウジョウグチ)を過ぎるすこし行くと左右に別れ、左は大庫理(ウフグーイ)といわれる最初の礼拝所から寄満(ユインチ)と言う礼拝所にいたる。

   

御門口の香炉                            参道

   

大庫理(ウフグーイ)                  寄満(ユインチ)

戻って、右に行くと三庫理(サングーイ)と言う岩が三角形に口をあけたところがあり、その興が礼拝所となっている。ここからは遠く久高島を遥拝することが出来る。

 

沖縄戦の慰霊  ひめゆりの塔など

 更に南下すると、沖縄戦最後の地となった本島南端に近付く。ここには平和記念公園ひめゆりの塔などがあるが、記念公園は入口で失礼し、ひめゆりの塔に献花してホテルへの道に向かう。

  

平和記念公園  ひめゆりの塔の献花

すこし引き返し、県道7を北上し、沖縄道の南風原南ICに向かう。しかし、途中のスーパーでお買い物。それは今夜のホテルが夕食が無く(小生が咽喉の関係で食い物に制約があり、ここのホテルは電子レンジなどもあって、食事が作れる)食事の材料を買う必要があったからであるが、色々と見ていて、予定より50分遅れ。

北中城ICから県の中央付近の沖縄市東京第一ホテルオキナワグランメールリゾートと言うやたらと長い名前のホテルに18時に到着。

  

ホテル入口のシーサー ホテルの部屋(3人でも十分)

車に乗った距離は89km。歩いた歩数は9000歩強で最近に無く歩いてしまった。

丘の上のホテルで部屋は13階で広々としており、周辺から海までよく見える。

テレビを見ると、今度はチリの地震。三陸方面と違い、とりあえず関係ないと思ったが大間違いであることが翌日分る。