「勝ち組」「負け組」

 最近、テレビや新聞雑誌で「勝ち組」「負け組」という言葉が盛んに面白おかしく使われるようになった。

「めくら」「ちんば」などを差別用語として「視覚障害者」「身体障害者」などと訳の分らない言葉で置き換えたくせに、全く困ったものである。

おそらく、「これは差別用語ではない」という言い訳が出来るからであろう。

「勝ち組」「負け組」には、2種類ある。

ひとつは「努力して成功した勝ち組」、「努力したが失敗した負け組である。

ITブームの到来を予測し、これにうまく乗り、努力をして勝ったホリエモンなどが「勝ち組」としてもてはやされ、昔からの事業を必死になって努力してやってきたが、需要も減り、後進国の安い製品に負けてしまった「負け組」もある。

もうひとつは、何もしなくとも「地盤、看板、カバンを受け継いだ二世の政治家など、さほど努力もしない勝ち組」、「遺産も無いが努力もしない負け組である

 したがって、この言葉は、「差別」ではなく「区別」だと言うのであろう。

しかし、この「勝ち組」「負け組」という言葉の裏には本当の「差別」が隠されている。それは、能力があるか無いかと言う意味での「有能」「無能」ということである。

「勝ち組」「負け組」は、この3種類の組み合わせでの勝ち負けと言うことになる。

「有能で、努力をして、遺産や伝統もある勝ち組(当然負け組もある)から

「無能で、努力もせず、遺産や伝統も無い負け組まで様々な組み合わせがある。

 人は、「努力をして、遺産や伝統も無いのに成功した勝ち組をもっとも好み、「努力をせず、遺産や伝統がありながら成功しない負け組をもっとも嫌う。

しかし、その背後にある能力は必ずしも認めようとしないし、認めたくないと言う気持ちがある。そして、「努力もしたが、運があった」などというのである。

 努力をするということは、不運に遭遇しないような努力しており、それを避ける能力があるというのが正しいだろう。

明智光秀が、本能寺で信長の首を取ったが、まさか、秀吉が大返しでやってくると言う事まで予測していなかったとしたら、その時点で負けであったと言えよう。

 それじゃあ、高校野球で相手が不祥事で優勝を取り消され準優勝高が出場したのは運だろうと言うかもしれない。しかし、それも不祥事を予測し防げなかった方の能力が低かったと言うことであろう。

勝敗は、能力と努力の両方が必要である。マスコミは「勝ち組」と言われる人達をもてはやす一方で、何か、欠点はないかと探し回る。

しかし、ここで言われている「勝ち組」「負け組」はいずれも努力をして結果がそうなったのである。今、一番問題なのは、努力をしてこなかった「負け組」である。

日本には、このような「負け組」が増えすぎている。いわく、ニートなどなど。

 縄文時代の遺骨の中に、くる病、足が悪いなどと言うものが見つかるが、それなりの年数まで生き延びていると言う。環境が過酷なこの時代にこのような人達が生きていくのには、周りが助けてやらねばならなかったろう。そして、本人たちも集団の中で、出来ることは何であれ努力して初めて生き延びる事が出来たに違いない。

真の区別は、「勝ち組」「負け組」で言うのではなく、努力をしているかいないかで言うべきであろう。

 それにしても、今回の総選挙の結果は何を意味するのだろうか?

              究極の負け組は国民であったなどとならないことを期待するのみである。