ALSと医者

 ALSになって、同病の人達のへのアンケートや手記をみると、医者に対する様々な不満が書かれている。

自分の経験でもまた、色々な不満があった。自分の場合は、70歳過ぎての発病であり、若い人達とは感じ方も違うであろう。

 若い人は、「未来を奪われた」と感じるだろうし、歳を取っても生への執着の強い人は「なぜ俺が」と思うだろうし、その中間の人は、「自分の死後の家族は」と思うであろう。

このような患者の思いに対して、医者の中には全く感受性のない人がいるようである。

「病を治すのが医者である」とのみ思っている医者も多いようである。従って、「症状の個体差が大きく、医者として手の打ちようがない病気」であるALSにどう対応したらよいかと言うことになると、医者としての技術ではなく、人柄、人格が問題となってくる。

自分が実際に神経内科の医者に接して感じたことを書いてみよう。

 

 自分の場合、高血圧などで循環器系のE医師とは30年近い付き合いがあり、5年ほど前から不整脈にもなって、ますます緊密な関係となっていた。

今年の春、どうも呂律がおかしくなり、当初は花粉症の影響かとも思ったが、彼と相談し、Mクリニック(脳神経外科が主体)を紹介してもらい、MRIなどで脳や頚椎をチェックしたが、異常なし。

しかし、腑に落ちないので、総合病院の神経内科を紹介してもらってF医師の診察を受けたが、この時は加齢か?位の診断で終ってしまった。

それでも、納得いかないので、もう一度、相談し、Mクリニックの神経内科を紹介してもらい、診断を受けた。

こちらC医師は、症状を聞くと、色々な検査をしますと言うことになり、検査内容を聞いた。

帰って、ネットで調べてみると、症状と検査内容から、ALSではないかと思うようになった。

診察検査を受けたC医師に、「ALSではありませんか?」と聞いたが、その場では答えなく、

針筋電図など全部の検査が終ってから「やはり、ALSです。他の病気でないことを判断すのに少し時間がかかったのです」との答えであった。

 その時までには、ネットなどで調べていたので、最後はどうなると言うことは分かっていたが女房などショックだろうと思い、「奥さんにも診断結果をお知らせします」と言うので、事前に少し、話をしておいた。女房も知人がこの病気で無くなったということもあったようである。

 C医師から色々と聞いたが、問題は、この病院が水戸に新しい病院を建設中で、ここに病棟も移すことになっていて、人で不足で、こちらの病棟は閉鎖すると言うことと、咽喉や呼吸器などの緊急対応が出来ないので、総合病院にかかれるようにしておいた方が良いだろうと言う。

 そこで、E医師と話しをして、C医師からデータを貰って再び、総合病院に行くことにした。

今回は、病気そのものは大体分かっているので、「現状」「終末期」の途中経過での問題点について、質問状を作って持っていった。

 

C医師の場合、説明を熱心にしてくれたが、どうしても終末期の話になると、厳しい話になる。

しかし、こちらのことを心配していると言うことが良く分かる。

 

F医師の場合は、その辺の表現が問題である。予め現状と終末期の予測をして、その間をどうやっていくかを相談したかったが、「それは個人差がある。人工呼吸器を付けるかつけないかどうしますか?などと聞く」そんな話は、もう少し先でも良いはず。

むしろ、難病認定や、介護段階までに何をすべきか、医療以外のことでも、知っていることを

教えるとか、ALS協会で、こんな事もやっているとか、別の面からのアプローチがあってしかるべきだろう。

次は3ヶ月後です、などと事務的に言われると患者側は、ますます不安になり、人によってはやけになったりするのではないか?

しかし、勤務医の仕事の負担は極めて大きく、医療以外のことをまでやるのは大変であろう。

その辺は本人の考え方次第。「神経無いか?」でなく「神経内科」であって欲しいものである。

とは言え、医者としては、終末期の患者の呼吸困難などから来る苦しみを知っているだけに、対応は難しいと思う。

日本もやはり尊厳死と言うものについて法的にきちんと決めて欲しいものである。

人工呼吸器をつけるか、つけないかという選択肢のみでなく、つけても、何ヶ月、何年後には外してほしいと言う事前の尊厳死についての本人の遺言書などを認めるべきと思う。

人工呼吸器をつけた息子からの頼みで母親が外して殺人罪などと言うのはおかしな話である。

呼吸困難になり苦しんで、救急車で病院に運びこまれ、とりあえず人工呼吸器をつけても、遺言書に決めておいた時に、安楽死できるとなれば、本人も回りも、医師も皆、Happyと言うことにならないだろうか?

仮に正への執着が無く、人工呼吸器不要と医者に言っておいたとしても、場合によっては何かしら遣り残したことがある段階で、緊急事態ということになるかもしれない。

ここに、何らかの余裕があってもしかるべきだろう。