下谷七福神廻り
残念ながら、関東大震災、東京大空襲で江戸から明治の面影はほとんど無くなり、戦後の開発もあって、昔を知ることも難しい。 しかし、池波正太郎の「江戸切絵図散歩」の中の、近吾堂版江戸切絵図「下谷三ノ輪浅草三谷辺之絵図」(嘉永3年)で見ると、相対的な七福神の位置を偲ぶことができる。 昭和通がなかった時代、空色の線の道筋(入谷口通)が中心であった。七福神全部の位置は、良く見えないが、何箇所かは読み取れた。歩いたのは、赤線の道筋である。
上野駅から鶯谷駅に着き、北口に向かうとすぐに地下道になる。ここは、戦後とあまり変わらない佇まいである。
鶯谷駅北口付近(左は谷中墓地) 鶯谷駅北口(今の東京とは思えない) 北口に出ると、そこは、ラブホテル街。その真ん中に元三島神社がある。
ラブホテルの向こうに神社が 神社入り口
拝殿と寿老人の像(左) 縁起によれば、弘安の役の時、河野通有が四国の大山祇神社に必勝を祈願、帰国して、上野の山に神社を建立したのが初めと言う。
再びラブホテル街へ そして言問通の入谷鬼子母神へ ここを参拝して、言問通を浅草方面に向かうと入谷鬼子母神として有名な真源寺です。ここは、福禄寿。この辺りは、江戸末期より朝顔作りが盛んで、今でも、7月6〜8日に朝顔市が行われている。
本堂 福禄寿堂
堂の中の福禄寿 正岡子規の句碑 ここから、言問通を渡ってすこし戻り、入谷口通(図の水色の線)に出て少しいき、狭い路地に入ると英信寺です。入谷口通には、昔ながらの古い店も残っています。
路地の古い町屋 入谷口通の昔風の店
英信寺 三面大黒天 すぐ近くが、法昌寺です。ここは毘沙門天で、日蓮聖人が祈願して開眼された毘沙門天が祭られています。
法昌寺と毘沙門天 さて、ここをすこし進むと、通りの向かいに、小野照崎神社があります。ここは下谷七福神とは関係ないのですが、古めかしい社があったので立ち寄って見ました。 ここは、平安時代、小野篁(たかむら)がこの地の風光を愛で、死後彼の霊を祭った社を寛永寺増築でここに移したとか。 幕末の慶応年間に立てられた社は、関東大震災、昭和大空襲の難を逃れて、残ったという。富士をかたどった富士浅間神社や、古い庚申塚なども有り、古い江戸の神社の姿を偲ぶことができる。立ち寄ってみる価値があります。
小野照崎神社 拝殿
富士浅間神社と富士 庚申塚 ここで、うっかりして鬼子母神で福禄寿の写真を撮り忘れたのを思い出し、言問通に戻って写真を撮り、近くのうなぎやでうな丼など食って一休みしました。 そして、昭和通を渡ると、七福神廻りの一団と出会い、その後について、弁天院に向かいます。ここは、1624年、不忍池に弁財天を建てた備中松山城主が下屋敷であったこの地の池にも弁財天を祭り、朝日弁財天と称したと言います。
弁天院 本堂(弁天と釈迦像) わずかに残る弁天池で ここの弁天池は、大きなものであったのが、関東大震災で一体が焦土となり、埋め立てられたりして、お堂の横の小さな池があるのみで、今は面影もありません。 ここまで歩き、次の飛不動尊(正宝院)に向かうのですが、筋力の落ちた身としては、いささかきついかとも思っていると、裏通りだというのにからのタクシーが来た。 これ幸いと、捕まえて、昭和通をすこし逆行し、鷲神社に行くことにしました。 ここは、浅草七福人の寿老人でもあります。前に来た時は、餅つきなどもやっていて賑やかでしたが、今日は参拝客のみです。
おなじみ鷲(おおとり)神社
境内の樋口一葉文学碑 正岡子規句碑 再び、戻って、正宝院へ、別名、飛び不動尊です。昔、寺の住職が修業の為、本尊のお不動さんを大峰山まで背負っていった。 ここのご縁日は10月10日だそうで、神無月で神が出雲に行って不在の後を預かり、10月10日には全ての願い事を「きく」ということから名付けられたとか。
飛び不動尊本堂 不動尊(反射してうまく撮れず) ここから三ノ輪の寿永寺までは一直線。寿永寺は、2代将軍秀忠の菩提を弔うため、寿永法尼が庵を営んだのが始めて、爾来、法灯が続いているとのこと。 ここは布袋尊です。
寿永寺本堂 布袋尊 各寺社で、御朱印をもらいましたが、赤塚不二夫の絵のような朱印帳です。 帰りは、三ノ輪からそのままタクシーで上野駅に行き、予定より早く帰ってきました。 以前なら、アキバなどに行ったものをーーー この下谷七福神は、江戸の昔を偲びつつ歩くには、あまりに変化が大きい所と言ってよいでしょう。しかし、歩くには距離も短く手頃なようで、老男女が結構、大勢廻っていました。
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