土偶展とチベット展(その2――土偶展) チベット展で、ずいぶんと時間がかかった。1時過ぎになり、二人で昼飯を食べました。 ここで友と別れ、土偶展に向かう。途中の動物園前の広場の横に、「上野東照宮」の案内が出ていたので、阿修羅展の時は拝殿を改修中だったので、近くの交番の警官に「完了したの?」と聞くと「終ったようですよ」と言う。帰りに見ることにして、傍でやっていた大道芸などを一寸見て、国立博物館へ。
大道芸を見ながら 東京国立博物館 こちらは、設備が整っている。コインロッカーにジャンパーや荷物を預け、見学。 チベット展が、1500年と言う時間なら、こちらはその十倍の時間の長さです。 国宝土偶展は、9月10日から11月22日まで大英博物館で行われた「The Power of Dogu」の帰国記念展で、国宝3件、重文23件を含む67件の展示です。 土偶は全て女性像で、祭祀に使われたとも言われていますが、詳細は、まだまだ研究の余地があるでしょう。(以下の写真は絵葉書や写真集のもので、相対的な大きさは異なります) それが作られた場所ひとつとっても、気候、植生、海や湖などの位置など、時代によって異なっていて、生活環境も変わっているだろう。また、製作技術も変化し、大陸や他の地域との交流の影響もあったのでしょう。 縄文時代を大雑把に分けると次のようになるようです。 1. 縄文草創期(旧石器時代に繋がるBC10000年頃から7000年位まで) 2. 縄文早期(BC7000〜BC4000) 3. 縄文前期(BC1000〜BC3000) 4. 縄文中期(BC3000〜BC2000) 5. 縄文後期(BC2000〜BC1000) 6. 縄文晩期(BC1000〜弥生時代前期(BC400位)) 縄文早期頃までは、形状も簡単で、胸や腰を強調した丸みを帯びた平板に乳房をつけたようなもので、中期頃になると、立体的になり、顔や手足も表現されるようになっています。 壷を抱く土偶 子供を背負う土偶 子供を抱く土偶(あとの二つは頭が欠落) 中期土偶の傑作(右は土偶のヴィーナスといわれる) この頃から、大型の立派なものと、小型の簡単なものに分化したようで、縄文人の生活が集落と言う形をとるようになり、集落の祭祀用と個々の住居での祭祀用とに分化したのだということです。 縄文後期には、更に立派なものが生まれ、単なる女性像ではなく、祭りなどの祈りの姿などを表現したのだろうと言う様々な形や、子供の骨壷ではないかといわれるもの、お面、動物の形なども出て来ています。 後期土偶の傑作
しゃがんだ姿勢の土偶(後期土偶)
晩期土偶の傑作
壷に描かれた文様(下は左の壷の展開図で4人の人が手を繋いでいる)(中期)
動物型の土偶(左:中期、右二つ:後期)
容器型の土偶(中には子供の骨があった) この時代には、火炎土器のような複雑な形状の土器を作る技術も発達してきており、より精密なものが作られたのでしょう。 地域的には、今回の展示品の分布を見ても、中部から北海道にかけてが中心で、後の弥生時代以降の埴輪とは、連続性はないと思われます。 今回の展示品の出土地域 この時期には、従来よりも寒冷化が進み、海も後退し、植生も変化し、縄文人には住みにくい環境になって行ったようです。 逆に稲作を中心とする弥生人にとっては、新しく生まれた海岸近くの土地が稲作に都合が良かったのでしょう。 様々な造詣を見て、縄文人がどのような生活をし、どのような祈りをしたのかを想像することもまた楽しいことです。 (常陸国住人後記) さて、国立博物館を出て、午後の日差しの中、科学博物館前の野口英世の像の横を通り、動物園前を過ぎて、上野東照宮に向かいました。(この辺は、阿修羅展で紹介しました)
博物館前の言問通り 野口英世像 鳥居のこちらから見ると拝殿が立派に見えます。大名達が大権現の家康に奉納した石灯篭、銅灯篭などがたくさん並んでいる参道を拝殿に向かうと、なんと、拝殿と思ったのは、幕に転写した写真です。
東照宮一の鳥居 参道と灯篭
拝殿まで完成して後ろを工事か?と思いきや===(2ー3番目の屋根は写真貼付け) かなり近くまで行かないとだまされてしまいます。いく時に質問した警察官など、関心も持っていなかったようで、だまされた方でしょうが公園の案内人としてはいささか問題かもーー |