沈寿官の陶里を訪ねて

 

鹿児島市より西に車で1時間足らずのところにある、朝鮮陶工の末裔である沈寿官の陶里(日置市美山)を訪ねた。

              

                      沈寿官窯

司馬遼太郎の小説「故郷忘じがたく候」で脚光を浴び、この書のモデルとされるのが「薩摩焼宗家14代沈寿官」である。
それまでは無名であったが、この書の出現とマス・メディアにより、一躍有名になったとされる。

現在は、15代が沈寿官を襲名している。

 実はNHK「鶴瓶の家族に乾杯」でこの地を訪れ、たまたま出会いがあったのが、この「14代沈寿官」である。 その放送を見て、一度は訪ねてみたいと思っていた。

広大な敷地に、風格のある屋敷、作業所、作品展示室、そして登り窯など、見せてもらった。

 

屋敷

      

登り窯

ここから30分ほど走ったところに、これもNHK大河ドラマ「篤姫」で有名になった「小松帯刀」のお墓があるというので、探して訪ねた。
奥方(お近)の墓(向こう側)と並んで、ひっそりと眠っていた。

 

小松帯刀の墓

いずれも今回初めて訪ねたが、意外とふるさとのことを知らないものである。

(常陸国住人後記)
 司馬遼太郎の書いた「故郷忘じがたく候」は全くの虚構であると言うことを酒井学と言う詩人が書いている。
しかし、初代の沈寿官が、朝鮮の役で韓国から日本に連れて来られた陶工の一人であることは間違いないでしょう。
朝鮮の役の戦利品は?と言うと、加藤清正の虎の皮は別にしても、戦国大名は茶道の道具の陶器を自分の所で作りたいと言う事から、陶工たちを連れた来たのでしょう。
戦国の世に茶道が生まれ、その道具としての陶器が珍重され、その結果、朝鮮の役で陶工が連れてこられ、北九州の陶磁器が発展し、江戸時代に西洋に輸出され、それを真似てマイセンなどになっていくと言う流れが有ったことは間違いないことです。
 事の善悪は別にして、これが歴史の流れというものでしょうか