麻雀の牌はどこへいった?

 

 中国でのが盛んになった80年代の頃、瀋陽変圧器廠との技術提携も含め、しばしば、北京から、瀋陽へといったものである。

はじめの頃は、北京発の夜行列車で行く瀋陽まで行ったものである。夕方、北京駅に行くと、足の踏み場もないほどの人人人で、大きな荷物を抱えて列車を待っている。
我々外国人は、いわゆる軟架車(いわゆるグリーン)であるが、
4人のコンパートメントとなっており、二つの二段ベットの間に小さなテーブルがあり、若い女性の車掌がマホービンにお湯を入れて持ってきてくれる。
テーブルには、絹のシェードに花模様などを刺繍した小さなスタンドがある。

4人で乗ると、他の人間が居らず、ほぼ、12時間で瀋陽に着くから、その間は酒を飲んでいると極めて快適である。

ただし、これは冬に限る。北に住む中国人は、冬の準備は万全であり、列車も暖房が効いていて暖かい。夏は、冷房が無いから、蒸気機関車の区間では、窓を開けておくが、着いた時には、すすだらけになることを覚悟する必要がある。

 その後、飛行機便も増え、飛行機で行くことも多くなった。当時は、北京空港、瀋陽空港とも、設備は不十分であり、誰か迎えに来てもらわないと、地方空港では、タクシーもない。飛行機もソ連製で、しょっちゅう、トラブルがあり、滑走路の状態、天候などで、ちょっとしたことでも、しょっちゅう、出発延期や取りやめが起る。

 さて、このような時代、北京で、電管局などと打ち合わせ、瀋陽には、技術提携の話で行くと言うことで、小生と事業部のO君、が出かけた。
先方では、北京事務所長のT君が、新日本通商のA君とてぐすね引いて待っている。

当然、昼間は、仕事であり、夜は、出かける所も無いので、新日本通商のある新京飯店の一室で、麻雀ということになる。「どうせ、電管局などと打ち合わせても、後は、金だ、そこは俺に任せろ、早く帰って来い」と言う位の麻雀好きのT君である。

            

                      当時の麻雀

瀋陽に行くの行かないの言っていたが、俺にも付き合えと言って、其の夜は、しっかりと麻雀をやって、飛行機で行った。

空港に着けば、出迎えが大勢来ており、何かの費用をごまかして買ったのか、立派な外車でお出迎えである。当日は、歓迎会、酒を飲んで、翌日から打ち合わせである。

 打ち合わせの主役は、こちらであり、当然、T君は閑である。其の夜も歓迎会があったが、二日目ともなれば、疲れも取れたか、ホテルに帰ってもやることがない。

 そこで、麻雀がやりたいと言い出した。当時は、麻雀は、公には出来ず、ホテルに牌などあろうはずがない。

ところで、お宅のトランクはでかいから麻雀牌位入っているだろう、見てみたらどうだ!」「いや、入れた覚えがない」「だけど、念のため見てみろ」などと言って、下の方を探したら、牌が出てきた!!

ほら見ろ、あったろう」などと皆で冷やかした。
知らぬは、本人ばかりなりで、実は、出かける前に、どうせ、麻雀をやりたいと言うだろうから牌を持っていったほうが良いだろうと他の三人の意見が一致した。
それなら、あいつのトランクが大きいので、入れておこう。どうせ中身など見やしないと言うことで、共謀しておいたのである。

「お前らはふざけている」などと口では文句は言ったが、其のうれしそうなこと、明日は帰るだけだからといって、早速、其の夜は、麻雀である。

 そして翌日、ホテルを出て、空港に着いた。見れば、乗るべき飛行機はどこにもない。「飛ぶのは夕方です。」と言う。案内の工場の人が気の毒がって、どこか市内でも案内しますよというのを、「いや、ご迷惑でしょうから、ホテルを借りてください。我々も疲れている?!ので、休んで帰ります。時間がきたら車を回してください」などと、殊勝なことを、T君が言い出した。

 そして、ホテルの部屋に入るや、ベッドの敷布を引っぺがし、テーブルの上に敷いて、「さあー、雪辱戦だ!」と言うことになった。

 何事も、備えあれば憂いなし