SF(その1)
SFとは、Science Fiction の略であり、マニアの間では世界共通語である。
自分も不思議な話に魅せられ、日本語の訳されたSFはほとんど読んだ。
人間は、未知なる物を解釈する時、宗教とか信念とかいったものを基に理屈をつけるタイプと、もっと何か理解できないことがあるのではないかと想像するタイプがあるような気がする。
前者の世界に住む人は、その中に安心立命の境地を見出すであろうが、後者ではさまざまな空想が行われる。そして生まれてきた物語が、今風に言えば空想小説であろう。不思議な話を纏めたさまざまな物語がある。
捜神記、封神演義、今昔物語、アラビアンナイトなどなど、昔からさまざまな物語がたたり継がれ、書き残されてきた。これらを読んでも、話が空想の世界にとどまり、現実にはならないと言うことが誰しも分かっていた。
しかし、技術の進歩は、これらの物語にさまざまな科学的根拠をもっともらしく与えるようになった。それが、空想科学小説、すなわちSFである。
仙人の住む世界に連れて行かれ、何日か経って帰ってみると、故郷では数百年の時が過ぎていたという話も、宇宙船で光速に近い速度で連れて行かれたら相対性原理で確かに、このようなことが起こるのである。
色々な化け物も、別の惑星の生物かもしれない。
空想小説に科学の味付けがなされたのは、タイムマシーン、宇宙戦争などが書かれた産業革命以降である。日本では、押川春浪、海野十三などからはじまった。
子供の頃に読んださまざまな小説の中に、SFもたくさんあった。
海外のSFは、戦後、アメリカの駐留軍が持ってきたものを、古本屋などに売ったところから始まったのだろう。小学の頃、漫画のブロンディや、スーパーマンなどを東京に行く度に買ってもらったりしたものである。
1930年代の後半から50年代は、アメリカのSFが盛んになった第一期である。
それらの小説が訳されて、早川書房、創元文庫などで日本でも発行され、1060年代にSFが盛んに読まれるようになった。
SFの世界ではある意味で何でもありだから、宗教や信念をもとに物事を解釈する人達から見ると、誠にくだらない物であろう。
これらの小説を読んで、その矛盾とか非合理性を指摘することは簡単である。もともとありえざる世界を想像してかかれたものである。同じようなものに、ヒロイック ファンタジィがある。空想の対地に、剣と魔法の冒険を繰り広げると言うもので、指輪物語、ハリーポッターなどもそのジャンルで、日本でもそれに近いのが南総里見八犬伝である。 さらに、これらの二つのジャンルが結びつくと、スターウォーズとなる。
人間の創造力は、想像力が大きな源泉であることを忘れてはならないだろう。