ケララ州にて(その1)

 

 インド最南端のケララ州政府と変圧器を中心とした合弁会社(TELK)が出来たのは、小生が入社する以前の昭和33年のことである。

日立からは、テクニカルアタッシェと言うことで、人が派遣されていた。

創業当時、10名以上いた日本人も、最後は、この職位の人のみとなり、それぞれに苦労されていた。

 小生も、日本の500kVの技術を、インドの400kVに移転する頃から、ここと関係するようになった。

そして、何回か、インドに出張し、コーチンの町に滞在した。今思うと、1960年代から今日にいたるまでインドの社会も大きく変化してきた。

今日では、世界中何処へ行っても、同じような町、同じような服装があふれているが、1980年代までのインドは、混沌として、今とは違う魅力があったように思う。

 初めて泊ったホテルは、工場建設当時、日立の人達が泊っていた所で、シーサイドホテルといい、前の道路の向こうはコーチンの港に通ずる湾が広がっていた。

中に入ると、右には食堂、左には、小さな雑貨兼土産物の店があり、階上がホテルの部屋になっている。

いかにも、昔のドラビダ族の子孫と言った風な色の黒い、背の低い、やさしい目をしたサーバントが現れて、巻き舌の英語で、なにやらまくし立てる。

1ルピーもチップをやれば、極めてサービスが良い。

さすがに紅茶の本場であり、ライムを入れて飲むと、レモンとはまた違った風味がある。

翌日からは、「マスター,ライムティーか?」と帰るとすぐに現れて訊ね、チップを渡すと大喜びで、「お前は、日立か?俺は、前に泊まっていたミスターオガワ(工場の副工場長で立ち上げの責任者として来ていた)から、按摩を習ったなどという」

 朝、暑さの中で目がさめると、天井には緑色の大きなヤモリが張り付いている。

蚊などを食っているのであろう。裏の窓から、外を見ると、隣の屋上では、ヨガらしいポーズをとっている老人がいる。道路の向こうの軒下では、夜、そこで寝たと思われる男が、一宿の恩義を返す為、その辺を掃除している。その横を樽のような象皮病の足を引きずって歩いている男がいる。

 表の道路の向こうの護岸上にも、大勢の人が新聞紙を敷いてまだ寝ている。確か、19世紀ごろだと思うが、キップリングがインドへ来て、岸壁の上でボロの毛布の上に寝ている大勢の男達がいるということを書いたのを読んだ記憶があるが、100年間で、間違いなく、生活のレベルが毛布から古新聞に落ちたらしい。

 ここは港町で、港の入り口には大きな四手網がいくつも仕掛けてある。この四手網をどういう由来か「China Net」といい、潮の干満に合わせて網を上げ、魚をとっている。網を上げる時間ともなると、からすが現れ、ちゃっかりと魚を盗んでいく。

 夕方ともなれば、何処からともなく大勢の男達が現れ、あちこちにたむろして雑談にふけっている。かくして、一日は終わり、それが繰り返される。
                                

                                    カラスが待っている