阿修羅展から上野の山、不忍池の散策

 今日は、月一度の大学同期の仲間との囲碁の会。東京に、昔の仲間5人が集まり午後から神田で囲碁を楽しみ、終って何時もの中華料理屋で一杯やるのです。小生が一番弱く、まあ2段相当、一番上は7段格です。

 午前中、時間があるので、上野に9時に着く電車で行き、国立博物館の阿修羅展を見ることにしました。

9時半頃行くと、もう並んでいたが、すぐに入場できたのは幸いでした。帰る時には、長い行列で40分待ちとなっていました。

上野の桜染井吉野は散り加減、枝垂桜が満開です。

         

 上野公園の染井吉野                           国立博物館(平成館)の枝垂桜

阿修羅展という名前ですが、興福寺の天平期、鎌倉期の仏像を展示し、中金堂跡の調査で発掘した様々なものも展示しています。2010年が、興福寺創建(710)1300年祭に当たるのを記念しての公開だそうです。 阿修羅などが東京に来たのは、60年ぶりといいます。

         

60年ぶりの公開 阿修羅展                          全体像

「興福寺」

 藤原一族の菩提寺と言って良いでしょう。最初は669年、藤原鎌足の夫人鏡女王が京の山科の建てた山科寺で、679年、飛鳥の厩坂の移され厩坂寺となり、710年に藤原不比等が現在の平城京に移して、興福寺となったのです。

 その後、藤原歴代の主が様々な堂搭を立てましたが、火災などにあうことも多く、平安時代には、藤原氏の財力で、その都度、もとの規模で再建されました。

しかし、平安末期、強大となった僧兵の勢力と対抗する平重衡によって焼き討ちされ、大半の堂宇は灰燼に帰しました。その時、持ち出されて残った諸仏が、今回の展示品です。

その後、何回も再建、焼失を繰り返し享保年間の紅いで焼失してから、もとの規模には戻りませんでした。

更に、明治の神仏分離で荒れ果てて、五重塔まで売り払われて解体されようとしたのです。寺宝なども一部、散逸したようです。明治中期には、このような混乱も収まって、これらの諸仏は国宝に指定されました。

ここにも、神仏分離の愚行の影響があります。

今、諸仏が納められている中金堂は、仮の物で1300年祭を記念し、旧の形に復元する工事が着手されています。

 

「阿修羅像」と八部衆

 阿修羅とは何か?調べるとややこしい。とりあえず、帝釈天と戦った悪神だったが、仏陀の守護神の一人となったと言うことにしておきましょう。

興福寺の阿修羅像は、そのようなものを越えて、我々に色々な思いを起こさせる容姿をしていました。

三面六臂の姿で、少年の面影、三面それぞれに微妙に異なる表情は何を意味しているのでしょうか?

 側面の貌を正面において見るなどと言う機会は、このような展示だけです。

像の周りを回りながら、ふと、ゴルフのティーショットのことを思いました。

正面の貌――ティーアップして、力を抜き、闘志を内に秘め、じっと正面を見る。

右の貌―――バックスイングに入って、すこしまだ不安げな貌

左の貌―――打ち終わって、これなら良いだろうという気持ちの貌。

 今の俺にはとても駄目??と思ったのですが、帰りに夕刊を買うと、出ていました。スイング中の顔がーーーなんとなく雰囲気が似ていませんかーーー

 

 右            正面            左

阿修羅の容貌

 

  似たような感じと思いませんか

 八部衆とは、仏陀を守る守護神であり、仏教以前の神を取り込んでいます。

それぞれに特長があり、阿修羅以外は、鎧をまとっており、異形のものもいます。

 

   異形の守護神、八部衆

「十大弟子」

 釈迦の弟子達ですが、6体しか現存していません。それぞれの年齢や衣服、要望が異なっています。

中でも、高齢の弟子の姿、あばら骨の浮いた骨格など、なんとなく自分と似通ったものもありました。

 

   若い弟子から高齢の弟子まで

 

   弟子は誰 眼鏡をかけた わが姿

「脱活乾漆造」

 これらの仏像は、「脱活乾漆造」と言う、中国で始められた方法で作られています。簡単に言うと、中子を粘土などで作り、その上に漆を染込ませた木綿の布を数層にわたって貼り付けていき、細かい所は、漆と木の粉を混ぜた木屎漆と言う粘土状のものを張って加工して成型し、中子を跡から抜くのです。

中子を抜くためには、5層くらいの厚さが必要ですが、中子を残しておくと、少ない層数で済むのでそのようなやり方も行われるようになったようです。

度重なる火災などにもかかわらず、今日まで、これらの仏像が残ってきた最大の理由は、この製作法によるところが大きいのです。一木彫製や寄せ木、といった木材、金銅の鋳物などでは、重量が大きくて、到底有事に際に簡単に持ち出せないでしょう。

 このやり方、今日でも似たようなことが広く行われています。そうです。FRPです。木綿がガラス繊維に、漆がエポキシ樹脂に変わったに過ぎません。

 

「四天王像」

 こちらは、鎌倉期の再建時、いわゆる慶派といわれる彫刻師(康慶、運慶、快慶などの一派)が作ったもので、天平のものとは全く異なった雰囲気です。いかにも、武家の好みそうな彫刻で、三国志の関羽などを見るような雰囲気です。

 

   持国天             増長天           広目天          多聞天

    四天王像

 2時間近くかけて、見終わり出てみると、外はすごい行列で、40分待ちですなどと放送しています。

仏像は、自分の心に浮かぶ色々なことを明らかにしてくれるものですね。

 

天気も良いし、すこし、上野のお山を歩くことにしました。例によって、動物園前などでは、大道芸のパフォーマンスが行われています。

そこを過ぎて、上野東照宮に行って見ました。ここの現在の祭神は、家康、吉宗、慶喜で、家康の遺言により、藤堂高虎天海僧正が寛永寺内に家康(東照大権現)を祭る神社として建立し、家光が1651年に現在の社殿を建立した。

その後の戊辰戦争、関東大震災、昭和の大空襲でも損害を受けず、今日に至っているとの事です。

しかし、今は残念ながら社殿を改修中でした。

諸国大名が寄進した、200基を超える石灯籠、重文となっている48基の銅灯篭があります。石灯籠では佐久間勝之が寄進した巨大なお化け灯篭が有名です。

   

 上野東照宮の鳥居                      東照宮の社殿(今は仮屋根の下)

      

重要文化財の銅灯篭                               お化け灯篭(高さ6.8m)

 

 ここから桜並木に戻りましたが、暑いのでチョッキを脱いでいると、同年輩でしょうか、茅ヶ崎から来たと言う

親父に声をかけられ、しばし雑談。兎に角、元気な内に、色々歩こうと言って分かれた。

 更に西郷さんの銅像まで行って、すこし戻って、清水観音堂へ。ここの枝垂桜も満開です「。アベックの写真など取ってやり、観音堂から下って,不忍池弁天堂へ向かいました。

      

    西郷さん                                  清水観音堂

池の周りは、春というより初夏といった気温です。

ここから、池の中道を通り、湯島に向かう途中で、またまた、アベックから写真を頼まれ撮ってやりました。

昔から道を聞かれたり、写真を撮ったりするのを良く頼まれるが、暇そうに見えるのか、阿修羅の功徳か?

   

        弁天堂へ                            春の不忍池

 

      えさを求めるかもめ

湯島から上野広小路方面に出て、何時もの神田の碁会所へ。

そして、何時ものように懇親会。

 

   大学時代の仲間たち