真実

「100度C」で沸騰し「0度C」で凍ると学校で教わったと思います。

それは、正しいこととして、今日に至るまで、大半の人は何の疑問もなく信じていると思います。

これは、事実ではあるけれど真実ではありません。「100度Cで沸騰する」というための前提条件がいくつか抜けているためです。高山など、気圧の高いところではもっと低い温度で沸騰すると言うことは、ほとんどの人は知っているでしょう。

したがって「水は、1気圧100度Cで沸騰する」と言えば、それが正しいと誰もが了解するでしょう。

しかし、これも正しくないのです。たとえば、微量のエチレングリコールの入った水は、0度でも凍らないし、ちょうど100度でも沸騰しません。

そんなものは水ではない。それでは「純粋な水は、1気圧100度Cで沸騰する」と言わないからだという人が出てきます。

さて、これが本当に正しいでしょうか?
純粋な水を、表面が滑らかで、不純物が着いていない容器に入れて、静かに温度を上げていきます。すると100度Cを過ぎても沸騰しません。振動などを与えると突然、急激に沸騰します。これを突沸と言い、この時の温度は100度C以上です。

 このように、すべての事実を明確にして、その正しい真実と言うものを明らかにすると言うことは容易ではありません。

 事実が100あるとして、そのいくつかのみでこれが真実であると言う人達います。そして、教育とか布教と言う場でそれを真実として話し、信じさせるのです。

誰でも、知らないことを信ずることは出来ません。逆に言えば、知っていることのみがその人にとって真実なのです。すなわち、真実とは信実にほかなりません。

歴史や宗教の中で、自分達に都合の悪いことは、いかに多く抹殺され、消し去られてしまってきたのでしょうか?特に歴史と言うものは勝者が自分に都合が良いところのみを記録に残してきました。

 中国では、歴代の王朝が史官という特別の役人を置き、歴史を記録してきました。

かの司馬遷ですら、正しいことを書こうとして皇帝の怒りを買って、金玉を取られてしまったのです。

過去の中国では、一般大衆とは統治されるものでありました。どうせ、一般民衆には歴史など縁がなかったのです。

 知っている事のみが真実であるということは、知っていると思っていることもまたその人にとって真実であります。

宗教には、神が存在します。それは、証明することが出来ません。しかし、その存在を信じていれば、神は存在するのです。信ずる民がいなくなったために消えていった神は沢山います。仰ぎ見て信ずること、それが宗教であり信仰なのです。

愛、正義、といったものもまた、信ずることによって存在するのです。それが存在することを念じること、それが信念なのです。

 信ずると言うことはまことに危険なことです。