将棋は差す(指す)、碁は打つと言うが、正しい語源は別にして、差すとは能力に差がある色々な駒を動かすと言うことで、打つとは、白、黒の石を交互に置くからそう言うのではないかとも思える。

-B=差であり、違いを示している。その典型が、差別と言う言葉である。

 20年ほども前になろうか、秋葉原に行ったとき、ワープロの機能を店員に聞いて、実際に差別用語と言われる単語をH社のワープロで打ったところ出てこない。

なんで?と聞くと差別用語ですからとまじめに答えた。英語で同じ意味を打ったら出るだろうと言うと困った顔をしていたが、漢字では出ないと言うのもおかしな話である。

そもそも、言葉とは違いを表現するのが大きな役目のひとつである。

差別用語などという使い方をされたから、差別と言う言葉がなんとなく悪いことを表すのではないかなどと思われるようになった。本当は、区別用語と言うのが正しいのではないか。

 今では、落語の中でも、「めくら」「つんぼ」などという言葉は使わない。

「めくら」「視覚障害者」「つんぼ」「聴覚障害者」であったのであり、普通の人との区別をすることばである。

なんとか障害者などという言葉は後から出来たものであり、そういう風に言い換えても中身は同じである。区別をすることには変わりがない。

悪いことに、「視覚障害者」と言う言葉には、完全な盲目もあれば、白内障、緑内障、色盲、から近視、遠視、老眼まですべてを含むのではないかと考えられることである。

「視覚障害者」と言う言葉が出来たおかげで、日本人の大半が「立派な視覚障害者」となったのである。

差別用語の中には、正しい差別(区別)と蔑称とがあるのであり、蔑称はよくないと言うのは正しい。しかし、座頭市に対して「このどめくらがーー」と言うのは蔑称であるが、そう言わなければ映画は成り立たない。

 そもそも、差別用語はいけませんなどという教育をするから、言葉で喧嘩をすることが出来なくなったのではないか?

昔は、お互いに聞くに堪えないような悪い言葉を使って喧嘩をするが、めったに刃傷沙汰にはならなかった。さんざん、悪口雑言で侮辱され、我慢が出来なくなって刃傷に及ぶと言うのが一般的であった。

今は、一言二言、言い合っただけで暴力沙汰になるのは、国語教育がなってないともいえるのである。いわんや、十分に時間のあるインターネット上での書き込みですら、

たいしたことも書いてないのに、友達を殺してしまうなどという女の子が出てくるなどというのは恐ろしいことである。

 学校もドッジボールでボールの当てっこをするよりも、二組に分けて口喧嘩のやり方でも教えた方が良いのではないか