トンネルあるいは洞窟

 「トンネルを抜けると雪国であったという書き出しの川端康成の「雪国」を例に引くまでもなく、洞窟の向こうが、時空間の異なる別世界であるというテーマは、広く用いられている。

イザナギ命の訪れた黄泉の国、中国の桃源郷、不思議の国のアリス、ソロモン王の洞窟、最近では、千と千尋の神隠しにいたるまで、さまざまなバリエーションがある。

 洞窟の向こうに未知の世界があるというテーマ、洞窟を抜けるまでの冒険、洞窟の向こうの異世界でのさまざまな出来事、これらが、もっとも多く用いられているのは、SF(サイエンス フィクション)であり、ファンタジーなどでもある。

最近のプレステやパソコンのゲームでも、このような洞窟、ダンジョンでの冒険をクリヤーしていくことが、大きな比重を占めている。

 人は、なぜ、洞窟というテーマに魅せられるのであろうか。

それは、やはり、人間の誕生という原体験に基づくものなのであろう。母の胎内、子宮の言う安全な場所から、狭い産道と通って外に出てくる。

この時の感覚が、我々の頭の中に植えつけられているのに違いない。

よく、「産みの苦しみ」というが、産むほうが苦しいということは、生まれるほうも苦しいに違いない。不幸にして、生まれる過程で死んでしまうこともあるのだから。

「痛い」ということは、外界に対する防衛の第一歩であり、生まれるということを通じてまず、それを感覚として覚えているに違いない。

「産声を上げる」と言い、大声でなく産児は、元気がよく丈夫であるとも言う。

 私たちは、成長して、何とか安定した生活ができるようになると、そこに安住してしまう。

よほどの外圧でもないと、新しい洞窟を抜けて、次の世界に行こうという気持ちには、中々なれない。せいぜい、小説や映画、ゲームなどで疑似体験をするに過ぎない。

 そう考えると、出家するということも、ひとつの洞窟を通り抜けるということであろう。

出家して僧侶になり修行するということと、初めから僧侶として修行するということとはかなり意味が違うのではないかと思う。

 我々は、僧侶になって、現世界から離脱することは、中々できない。

そうは言っても、別世界に行きたいという願望は誰しも持っているに違いない。

最近、四国八十八ヶ所の霊場巡りなどが盛んになっているが、それもその現れであろう。

 しかし、人間は、最後は、「死の壁」を乗り越えることはできないが、「死の洞窟」には確実に入ることができる。

それまでに、できるだけ多くの洞窟を探検してみたいものである