足利から佐野へ

          北関東自動車道と休日ETC特割を利用して

 明日、足利栗田美術館に行きたいと女房が言い出しなした。姉さんが来ていいて一緒に行くのだと言うことです。

何の美術館かと聞くと伊万里などの焼き物だと言います。あまり関心が無く良く分からないが、足利と言えば、足利学校、途中の佐野には、厄除け大師があるので、ルートとしては面白い。

 しかも、北関東自動車道が全線開通、休日ETC割引で安上がり。あらフォーの娘も休みで運転も交代で楽ですから早速行くことにしました。

 

9:10過ぎに家を出て、常磐道から北関東自動車道に入り、新しく出来た笠間PAによって見ました。PAで小さいが、出来立てで綺麗であり、笠間焼きのオブジェなどもあります。東側にはゴルフ場、西側には筑波山を望む場所で周囲は典型的な農村の風景で、ここから次の筑西IC辺りまでの沿線は、心が和む風景が続きます。

 

   笠間PA

 次の壬生PAは車は入れるが設備はまだ建設中です。

 

鑁阿寺

進んで、東北道に入り、佐野藤岡ICでおり、行きは50号足利まで進みます。渡良瀬川を渡り、足利市内に入り、最初に足利氏の館があったという鑁阿寺(ばんなじ)に行きました。ここは、足利学校に隣接し、周囲を堀で囲まれたほぼ4万平方mの大きさで鎌倉、室町期の武家屋敷の面影が残っています。

        

山門(手前が堀で橋を渡って入る)                             鑁阿寺伽藍

 なんとも、難しい字である。辞書(字源)を引いても出てきません。由来を調べたら、12世紀末、足利義兼が邸内に大日如来を祭った持仏堂を造ったのは始まりで、鑁阿は彼の戒名だと言うことです(なにやら由来があるのでしょうが、そこの所は分かりません)。本堂、経堂、鐘楼などは重文となっています。その他、色々な建造物もあり、傍の大銀杏は巨大なものでした。

         

  本堂(重文)                          本堂の中(鏡は神道、幟は仏教)

        

 本堂(手前が不動堂)                       経堂(重文)

 

多宝塔(重文――右奥)

       

     不動堂                          大銀杏(天然記念物)

 ここから、歩いて足利学校はすぐ傍です。街中には古い家などもあり、風情がありますがシャッターを閉めた店も目立ち、地方都市の姿を示しています。

 

街中の風景

足利学校

  その創設は定かでないそうで、奈良時代からの説があるようですが、はっきりしているのは、15世紀前半、関東管領となった上杉憲実が現在、国宝となっている書籍類を寄贈し、庠主(校長)制度を作ったころからだそうです。

16世紀、フランシスコザビエルも、比叡山の教坊などと共に、坂東の学校として紹介しています。戦国期には、ここでの易学、兵学を学んだ物が大名などの軍師として使われていたようです。秀吉の時代、書籍がも協に移されるなどの異変がありましたが、家康がこれを元に戻し、徳川時代にもそれなりの保護が有ったようですが、藩校、寺子屋などの教育が一般化して、衰え、明治になると、書籍を売ろうとか、小学校が作られるとかの災難にあったようですが、有志の働きで、書籍の散逸は免れたようです。

 そして、平成になり、小学校の後に、庫裏や方丈、庭園等を復元しています。

 

 足利学校(説明パンフレットより)

      

 小学校があった頃                        復元後 

      

足利学校入徳門(入徳の扁額が架かっている)            学校門(学校の扁額)

      

 杏壇門(この奥が孔子廟)                      孔子廟

 

孔子廟の孔子像 

      

 方丈と庫裏                         復元された庭園

ここから、待ちに中の県道67号を佐野に行く途中に道路を挟んで、フラワーパーク栗田美術館があります。ここのフラワーパークは藤が有名だそうですが、季節はずれで、時間も無いので拠らずに栗田美術館に入りました。

 

栗田美術館

 ここは、3万坪と言う広大な敷地に大きな建物が幾つもある伊万里、鍋島などの焼き物を集めた美術館です。これを造ったのが栗田英男なる人物です。

1968年に東京に栗田美術館、1974に当時の金で200億とも300億とも言われる金で、故郷のこの地に作られたのが栗田美術館です。

 栗田英男なる人物、いかなる人であったのか?最初は、この辺の織物などの資産家かとも思ったのですが、そうではなく、色々と噂のある人物であるようです。

この地の肥料商の出で、総会屋、国会議員などなど、典型的な政治屋であったようです。毎夕新聞などと言う新聞も経営、汚職疑惑、暴力団との関係など色々と言われています。

 それはさておき、今は立派な美術館が残されていますが経営は大変でしょう。

 

 美術館全体図(パンフレットより)

      

   入り口                         本館への道

      

 展示室                        展示品の例(1)

      

展示品の例(2)                    展示品の例(3)

 展示は、似たような部分が多く、重要文化財と言ったものは余りありません。ともかく広い。

歴史館の頂上からは、目の下に、フラワーパーク、遠方に足利の街がよく見えます。

 所々に和服の女の子が居て、写真など取っているので聞いてみたら、今日は、和服の撮影会だとかで、成人前の女の子が40人ほど来ているとのこと。

着物屋とタイアップしてやっているのでしょう。

      

     フラワーパークと足利の町                   一寸失礼して撮影

 

 娘と小生は、さっさと見て廻り、コーヒーなど飲んで一休み、車で休んで二人が来たので、佐野に向かいます。

 

佐野厄除け大師

(以下はWikipediaからの抜粋)

944年、奈良の僧 宥尊(ゆうそん)上人が開いた寺で南都六宗の法相宗に属し、正しくは春日岡山転法輪院惣宗官寺という。
藤原秀郷平将門降伏を誓願、佐野の春日岡 (現在の城山公園)の地に、春日明神の社殿とともにお寺を建て朱雀天皇に申し上げたところ、「春日岡山惣宗官寺」の勅額を賜ったといわれている。その後衰えたが1297年8月に復興し、伝教大師を宗祖と仰ぐ天台宗となった。
1602年、佐野信吉が、幕命により唐沢城をこの春日岡(城山公園)に移すにあたり、寺は現在地に移転した。当山は、厄よけ元三慈恵大師(御本地・如意輪観音)を安置し、厄よけ、身体安全の祈願を続けており、正月大祭には約百万人以上の参拝客が来る

 

 と言うことで街中にあります。なんともはや、皆金ぴか。鐘楼の鐘まで金色です。

最近は水子地蔵などもあり、甘茶を掛けて厄を流す?お釈迦様も金ぴか。

金ぴかでないのは、足尾銅山の公害と戦った田中正造の墓碑位のものでしょうか。

 

  厄除け大師惣宗官寺

      

鐘楼の鐘(金ぴか)                    水子地蔵(金ぴか)

      

   本堂(金ぴか)                       お釈迦様(金ぴか)

        

    庫裏(金ぴか)                      田中正造墓碑

ここから、佐野藤岡ICはすぐで、帰りも快調で、5時半前に家に帰りました。約290km