名古屋の思い出(その6)
琵琶湖周遊(その2) 琵琶湖周辺の城
琵琶湖は、古代より畿内から東海、北陸への交通の要衝です。
戦国時代、周辺には多くの城があったが、戦国末期になり、浅井氏の小谷城が落城、秀吉の長浜城、そして信長の安土城と天下統一へ重要な役割を持つ城が造られています。
そして、徳川の天下統一までに城もまた統合されていったのです。 幾つかの城を廻りましたが、それぞれ、時期も違いますが、当時を思い出しつつ、まとめて書いてみました。
航空写真で見る琵琶湖周辺の地形
図から見ても分かる様に、琵琶湖の西岸は、比叡山などの山並みが迫り、耕地などはあまり無く、所々に港があるという地形です。東岸の方は開けた土地で、軍事上、重要な場所となっています。
東国に抜ける道は、鈴鹿山脈を越えて津に抜けるか、関が原から大垣に抜ける道になります。北国に抜ける道は、長浜、木の本方面から抜ける道になります。
琵琶湖西岸からは、いわゆる鯖街道を通って山中から北陸に抜ける道があります。
これらの道のうち、大軍を動かせる道は、東国からは関が原、北国からは木の本に限られるのです。
よく、何万の大軍を擁して出陣などと言いますが、決して本拠地から全軍が移動するのではありません。途中の色々な所から味方が参加して数が増えていくのです。
それでも、人が数人(仮に4人とします)並んで歩ける道を1万の軍勢が動いたとすると、前後の間隔を0.8mとしたら、10000÷4÷0.8m=3125mとなります。武田軍の如く、主な武将が馬に乗って移動したとしたら、4人は並べず、間隔も3m位となって、とんでもなく長い行列になります。
道路が整備されてくると、このような場所が関所になったのですが、平安時代から鎌倉時代などの戦記などに書かれている合戦の人数などは、この移動に要する時間を考えるとかなり割り引いて考えねばならないでしょう。
関が原の合戦で秀忠の参加が遅れたのも、真田の用兵も良かったが、やはり、大軍を動かすには向かない進路でもあったのです。
大分、余談が長くなりました。
まずは、名古屋を出発します。名阪高速を進すみ、関が原ICを降りると、傍に古代の不破の関跡があります。関が原の地名もここから来たとも言われています。
大和朝廷の成立期、壬申の乱などでもここが重要な役割を果たしており、6世紀ごろまでは、東の蝦夷への境であったのでしょう。
この西が関西、東が関東と言うことのようですが、箱根の関ができて中部が出来たのでしょうか??
ICから北に向かうと日本百名山の一つ、伊吹山で、かなり長い曲がりくねった道路を進むと伊吹山の山頂付近まで行くことができます。免許を取って練習にここを何回か上ったことがありました。
伊吹山頂の女房と長男(もう10年近くになる)
ICから西に少し行くと関が原の戦場跡です。東西の両軍が陣地を構えた場所が広く分布しており、ここならば、数十万の軍勢が交戦できるでしょう。
岐阜川から関が原と伊吹山を見る 関が原戦場の後
再び、名阪高速道を進むと 米原JCTで北に向かうと北陸道の木の本、長島方面で、南に下がると彦根ICで、彦根城に向かいます。
まず、北に行ってみましょう。
琵琶湖の最北端は、賤ヶ岳の横を通って敦賀方面に抜ける要衝で、この地は戦国時代、浅井氏の勢力範囲で、小谷城がありました。ここは典型的な山城です。この城は、浅井亮政が1516年?に築城と言われています。
朝倉、浅井の連合軍が信長に敗れた姉川の戦いの古戦場は、この城の南側の方向です。
姉川の戦いの戦場付近(はるかに伊吹山)
信長は、朝倉攻めで浅井に攻められて敗れた後、姉川の戦い(1570)で浅井、朝倉の連合軍を破ってから、この城も、秀吉の調略で周辺の支城が次第にはがされて裸となり、ついに落城(1573)に至ったのです。
城の下にある駐車場から本丸跡まで、山の尾根を伝うように進んでいきます。本丸までの道のりはかなりあり、歩くのも結構大変でした。
小谷城(中央が本丸)Wikipediaより 本丸跡と浅井長政自刃の地
秀吉は1573年、信長からこの一帯の地の大名とされ、ここが山城であることを嫌い、小谷城の資材なども使い、長浜に城を築き、小谷の住民なども移して支配を始めました。
浅井の小谷城が典型的な山城であるのに対し、長浜城は湖の辺の典型的な平城です。秀吉が始めて作った城で、城から直接、湖に船で繋がっていました。
その後、柴田勝家の甥の勝豊が入り、賤ヶ岳の戦いを経て、山内一豊なども入ったりしましたが、1615年に廃城となりその資材は彦根城の築城に使われたそうです。
現在の天守閣は戦後、模擬天主として造られ、市立歴史博物館になっています。
長浜の町は、大通寺への参道など、歴史的景観が整備されており、大通寺の台所門は長浜城の遺構です。
長浜城模擬天主閣(歴史博物館) 大通寺への参道
大通寺台所門(長浜城大手門) 大通寺本堂(重文)
更に少し下ると、佐和山城址があります。ここは戦国以前から水路の要衝で、佐々木氏の支配の下にあり、信長もここを重視して丹羽長秀を配しました。
秀吉時代には、石田三成が七層の天主をもつ佐和山城を築城しましたが、関ヶ原の戦いに敗れ、井伊直政が入り、その子の直継の代に彦根城を築城する時、石垣など全てを持ち去りました。今では僅か土塁、石垣の名残などが残るのみです。
彦根城から佐和山を見る(右側の山) ここが城跡とのこと
そして、ひこにゃんの彦根城です。関が原の論功行賞で、井伊家に三成の佐和山城が与えられました。井伊直政は磯山と言う所に城を移そうとしたが、戦傷のため死亡。二代目直継は家康の許可で、佐和山城から2kmの彦根山(金亀山)に築城したものです。
豊臣方の押えの城として近隣の城や廃城から資材が集められて近隣の大名も助役を命ぜられて作られたと言われ、天守閣も大津城のものと言われています(彦根市資料)。
(注)資料によれば、大津城は、秀吉が光秀の坂本城を廃し浅野長政に作らせた城で、その後、京極氏が入り、関ヶ原の戦いでは西軍から猛攻を受けた。現在の大津駅の近くと言うが遺構は全くないようです。ここが持っていた機能はその後、家康により膳所城に移されました。
大津城跡(残るはこれだけ)
彦根城は、各所の城から集めた資材で作った城であり、井伊家歴代の居城です。築城には20年近い年月を要し、家康の視察している戦略上の重要拠点でした。
ここも熊本城などと同じく、2008年、築城400年祭などが行われています。ゆるキャラ元祖のひこにゃんも大活躍だったようです。
ご存知ひこにゃん 彦根城本丸
城郭内(金龍公園)の玄宮楽々園から見た彦根城
更に、琵琶湖沿岸を下ると、安土城跡に至ります。この辺は、足利時代以来、各所に城がありましたが、信長は天下統一の威風を示す為、ここに、居城を築きました。
本能寺の変で明智軍が占拠し、その後、本丸などは焼けてしまい、二の丸などを織田秀信(信長の孫)が居城としていたが、秀吉の養子の秀次が八幡山城を築くに当たり、ここの資材を使い、廃城となりました。現在、その遺構が調査され全貌が明確になりつつあります。
安土城築城、特に石組みの技術はその後の築城に大きな影響を与えたと言われています。
良く見る安土城本丸の想定図 本丸への道
羽柴秀吉住居跡 総見寺三重塔(重文)
城跡から見た西の湖方面
八幡山城は、八幡掘といわれる掘割で琵琶湖との交通を図り、整然とした区割りを持ち、都市を構成していました。しかし、1590年に秀次は清洲へ移封、その後に入った京極氏も1595年に大津城に移って廃城となりました。
しかし、その後も町は商人の町として栄え、いわゆる近江八幡の近江商人と称されるようになったのです。戦後、堀は荒れて異臭を放つようになったのを、保存会の努力で往時の姿を取り戻しました。
浚渫されて復活した八幡堀と古い町並み(いずれもWikipedia)
更に下って、琵琶湖の最南端の辺りにあるのが膳所(ぜぜ)城です。この城は、徳川家康が東海道の押さえとして、大津城を廃してここに築城させたもので、湖上に突き出した土地に築城された。明治になり廃城令により、取り壊され、今では本丸は完全に陸続きとなっており、石垣がわずかに残るのみで、城門が膳所神社などに残っています。
琵琶湖に浮かぶ膳所城本丸跡 膳所神社に残る城門
ここから少し西に行くと、前に述べた大津城です。
更に、琵琶湖を廻って西岸に入ると比叡の山が湖に迫り、そこに明智光秀の坂本城がありました。ここは京と比叡山の押さえとして明智光秀を置き築城させたもので、坂本からは比叡山にケーブルで直行できます。
しかし、山崎の戦で敗れた後、丹羽長秀が再建したが、秀吉の命を受けた浅野長政が大津城を築城し、ここも廃城となったのです。
湖畔の光秀像と城址
更に、北上すると清水山城があります。この一帯は近江守護職佐々木氏の支配地で、佐々木信綱の死(1242)後、次男の高信が高島氏を名乗り、この地を支配、応仁年間に城郭が拡大され、1572年信長に攻められて滅亡するまで続いたと言われています。
典型的な中世の山城で、平成16年に国の重要史跡となっています。
坂本から、比叡山までは行きましたが、残念ながらここへは行く機会がありませんでした。
これらの城を見てみると、都を支配し、天下に号令する為には、琵琶湖周辺が重要な戦略的な地域であることが分かります。応仁の乱から徳川幕府の成立までの間に、多くの城が造られては壊されています。
今回廻った城の変遷の概要は次のようなものです。
そして、徳川時代から最後まで残ったのが彦根城です。