名古屋の思い出(その3)

  祭りを追って

 戦国の武将達は、祭りが好きでした。日本人にとって祭りとは、おそらく縄文時代以来、さまざまな祈りがそこに籠められていたのでしょう。今でも、発展しつつある企業は、祭りを行っています。景気が悪いから祭りを自粛するなどと言う管理者は戦いに勝てないと思います。

 小生のいた会社のある国府宮から富山に至る町々には、特色ある祭りが有ります。それらの祭りと町々を友人や家族と訪れた時の記録を元に紹介したいと思います。

国府宮から、一の宮を抜け、東海北陸道に入り、美濃関から郡上八幡を通り、荘川ICに着き、ここから国道41号に入って進むと高山、古川、そして富山県に入って、八尾富山市内と続いていきます。

東海北陸道荘川―白川郷間は建設中ですが、白川郷から先は、五箇山から砺波、富山に通じます。白川郷をついでに書き足してみましょう。

 

稲沢(国府宮はだか祭り)から東海北陸自動車道へ

 名古屋から尾張一宮までは、JRと名鉄が平行している。稲沢市には、JRは稲沢駅、名鉄は国府宮駅があり名古屋から距離的には殆ど変わらないが、ここはJRの方が運賃が安いと言う不思議な所。稲沢市は、植木や稲作など農業も盛んだが、様々な会社や工場も点在しており、中でも大きいのが三菱電機のエレベータ工場で、最近、173mの実験棟を立てた。

隣の一宮市が故郷創生基金で138mのタワーを作ったのを真似した語呂合わせ。

              

              語呂合わせの塔(稲沢=173m、一宮=138m)

国府宮駅からすぐの所に国府宮神社がある。国府宮神社とは通称で、正しくは尾張大国霊神社と言い、土地の原初の神(くにたまのかみ)を祭ったもので、大和系の神を祭ったものではないらしい。

                            

                 参道入り口の鳥居                    神門

                      

                                    拝殿                           

 旧暦正月13日に行われる儺追神事(裸祭り)は、天下の奇祭として有名である。

祭りは神男が選ばれ、これが斎戒沐浴しで当日に備え、数日前には当番となった町内会は、直径2,4m、重さ4tonもある巨大お供えもちを奉納する。

                         

  巨大なお供え餅を重機で運ぶ

 当日は各町内の裸男達が、注連縄を持って連なって気勢を上げ、それに見物客が触ると厄が落ちる。そしてその男達が境内に集まってきた所に、神男がガードする男達に囲まれて出てくる。

持ってきた厄を神男に負わせてしまおうと、男達が押し寄せ神男に触れようとして、熱気は最高潮となり、かけた水が水蒸気となって立ち上がるほど。

 権力を傘にきてなったような評判の悪い神男は、ガードする男達があまり守らず、時として大怪我をすることもある。(死んだこともあった)

            

             拝殿の前に集まる                      神男を迎えて祭りは最高潮に向かう

余談ですが、小生のいた会社もこの日は休みで、祭り好きが集まって竹ざおに縄を巻き、会社の周りで気勢を上げて、神社まで繰り出す。小生は、血圧も高く会社だけで失礼した。

     

          いざ、祭りへ(子供の右が小生) 初めての祭りは雪                          なおいぎれ

祭りの後に、なおいぎれと言う紅白の短冊状のお守りの布をくれる。毎年、これを車のハンドルにつけている。

 

 さて、稲沢を出て県道14号を北上し、一宮西IC東海北陸自動車道に乗る。右側は尾張一宮である。ここの真清田神社は、尾張一ノ宮で、祭神は天火明命(アマテラスの孫)と言われる。国府宮神社との関係は、なんとなく、小生が住んでいる日立の泉神社(延喜式にもある古い神社だが、どちらかと言えば地元民の信仰の場)と大甕神社(この地の悪神を平らげた)との関係に似ていなくも無い。そして、138mの一宮タワーを横に見て、川島PAにいたる。

このPAは木曽川沿いに造られた大きなPAで一般車両も使うことが出来る。

                           

                                 真清田神社(尾張一宮)

更に、木曽川を越えて進むと、長良川に沿って、美濃関市に着く。ここは、いわゆる関の孫六で有名で戦国時代、鉄砲鍛冶、刀鍛冶で栄え、その後も、刀や農具などを作ってきた。現在でも、農具や厨房刃物などで有名で、毎年10月には、関の刃物祭りが行われる。刀鍛冶の実演なども行われ、人出も結構多い。ここで、名古屋での独身生活用の包丁やらナイフ、砥石など買い揃えた。

余談だが、海外に行くと名前入りのスイスのナイフなどくれるが、それと同じように、会社でもここの小型ナイフをちょっとした名刺代わりに使ってみようとして、良いサイズの物を見つけた。一個買ったら800円ほど、しかし、ネットで大量購入すると名前を入れても、100円強であった。しかし、それは関の業者が売っていても中国産。とは言え話の種には良いと発注した。

ここの刃物会館では、植木の剪定ばさみなども安く売っており、高校の友人たちもそれを買って帰ってものである。

                    

                   関の刃物祭りの出店                    これでも100円強(上はUSBメモリー)

郡上八幡(郡上おどり)から荘川へ

長良川に沿って北上し、郡上八幡ICで下りると、郡上八幡市に着く。

郡上八幡には、大きく分けて3つ有名なものがある。第一は、郡上八幡城。第二は清流、きれいな湧き水に関する町並みなど、第三は重要無形文化財の郡上おどりである。

この城は、戦国末期に、遠藤氏によって八幡山に建てられた山城で、遠藤氏は秀吉に追放されたが、関が原の戦いで東軍に着き、領地を復活された。しかし、五代藩主が夭逝し廃絶、その後何回か領主が代わり、最後は青山氏7代で明治維新となった。

この城の面白いところは、1933年に当時残っていた大垣城を模擬して天主閣が木造で造られたことで、戦後のコンクリート製とは異なっている。城から見た郡上八幡の街並は綺麗である。

            

             郡上八幡城模擬天主閣                     郡上八幡城から見た町並み

 町に入ると通りには水路があり、水が豊かである。宗祇水と言われる湧き水は日本名水100選の第一に選ばれている。町を流れる吉田川にかかる新橋は、夏になると子供達が12mの欄干から飛び込むのが有名。一度、高校生が死んで中止となったが、今は許可されている。

                                                  
               宗祇水                                       水のある町並み

                                       

                                       子供達が飛び込む淵

郡上おどりは、よさこい祭りなどと同じく、参加型の祭りであり、「踊る阿呆に、見る阿呆、同じ阿呆なら、踊らにゃそんそん」と言う事になる。しかも、7月中旬から9月上旬まで延々と32日間も行われる。お盆の晩は徹夜で踊りとおす。踊りの曲は10曲あるとか。

           

                            郡上おどりの様子

 郡上八幡でほぼ一日過ごし、飛騨高山に向かう。

 

(白川郷に寄り道)

 郡上八幡から飛騨高山に出て、ここで一泊すると言うのがコースだが、途中から、白川郷と高山に向かう二つの道に分かれるので、白川郷へ寄り道すると言う仮想のコースを作って見た。

白川郷へは、荘川ICで降り、国道156号を御母衣ダム湖に沿って北上するのが従来のルートである。現在は東海北陸自動車道は、更に荘川から飛騨清見ICまで伸び、ここから国道158号線が高山方面に向かう。一方、白川郷には建設中の東海北陸道が飛騨トンネルで接続される。そこから先の東海北陸道は完成しており、将来、高山や白川郷には、金沢に飛行機で行くのが便利になるだろう。(この記事を書いている段階で、全線が開通した!!

 小生が行った時は、御母衣ダム湖の横を通り、北上するルートである。

 白川郷は、ご存知、世界遺産の合掌造りの集落で有名。

ここは山深い雪の多い里で、祭りと言えば、10月中旬に行われるどぶろく祭りがある。これは、白河、鳩谷、飯島の三つの八幡宮で獅子舞、神輿行列などの神事が行われた後、神社で醸造したどぶろくを参拝者に配って皆で飲むと言うもの。

私的な酒造が禁止されていた時代もずっと続けていたと言う。娯楽や酒に縁の無かった山里での最大の楽しみであったのであろう。しかし、他の祭りのように観光資源にはなりにくいであろう。何しろ、飲んだ方も、飲ませた方も酒気帯び運転の罰金が恐ろしい。

 集落全体を見渡す景観が、四季を通して素晴しいが、住んでいる人達にとっては生活が大変であろう。

廃屋になりかかった家も、かなりあり、いくつかを集めて、「合掌造り民家園」という野外博物館として保存している。

江戸時代に、一軒の家にどんな人達が住んでいて、どんな関係で暮らしていたかなど、遠野の大きな曲がり屋と似通っていたのかもしれない。

                   

                              白川郷の集落

           

                     野外博物館 合掌つくり民家園

 さて、今は高山から白川郷までバスで50分で行けるようになったとのことである。もう一度、この辺に行って見たいものである。

 

荘川から飛騨高山(高山祭り)

 荘川から高山までは比較的フラットであり、今は、新しいバイパスが出来ている。

 飛騨高山は、縄文以来の遺跡も多く、4世紀頃まで、大和の勢力と争っていた。その後、飛騨の匠といわれるように木工の技に優れ、朝廷が都の建造などに徴用し、税金なども免除されたと言う。国府、国分寺などもこの地に置かれた。この伝統は、今日まで受け継がれている。

江戸時代には、初め、金森氏の城下町であったが、17世紀末に移封され、天領となった。田畑の少ない地方で、代官の治世によっては、大きな一揆も起こっている。この記録などは、高山陣屋に残されている。また、近くには飛騨の里と言う古い合掌つくりの民家を移した公園もあり、木工細工の実演なども行っている。

 高山祭りは、春の山王祭(4/14,15)と秋の八幡祭(10/9,10)が有り、精巧なからくり人形の乗った屋台を引き回す。春、秋と祭りが2回あるということは、観光的にもうまく出来ている。町も古い面影を残した通りなど風情があるが、電線がいささか邪魔に感じる通りもあった。

東海北陸自動車道が完成すると、飛騨地方の観光交通の中心としてますます便利になるだろう。

            

           飛騨の里にて(高校の友と)                    飛騨高山の町    

            

                          祭りの町並み                       祭りの屋台

 

古川(おこし太鼓)

 高山から東へ国道158号線を進むと奥飛騨温泉郷、乗鞍、上高地などへ進むが、北に向かって国道41号線を進み富山市に向かう。高山から10数キロ行った所が古川である。

古川も古い町で、ここも江戸時代天領であった。

ここの祭りは、4/19、20に行われ、19日の夜は起こし太鼓で、太鼓に乗った若者が囃子に乗って勇壮な太鼓を叩いて町を巡礼し、翌日は綺麗な屋台がまわって歩くものである。まだ、寒い飛騨の里での祭りは中々勇壮なものであった。

            

              起こし太鼓                              翌日の屋台

 

古川から八尾(おはら風の盆)

 ここから北に国道41号線を進むと山深い道を通って、富山県に入り、県道25号線八尾町に至る。ここは、おはら風の盆で有名になった所である。八尾町は、2005年に富山市に合併している。

おはら風の盆は、町流し、輪踊り、舞台踊りと三種類の踊りがある。しかも、前夜祭と称し、8月20日―30日までを各町内会が分担して、踊りを披露し、一般観光客なども参加できる。31日は本祭準備のため休み、9月1日―3日が本祭である。

30万人を超す観光客が来ると言う。

                     

                        町流し(新聞記事より)

 

 このように、名古屋から富山に至る道には、特色のある町があり、有名な祭りがある。これだけ祭りのある道筋は珍しいと思います。

 

「荘川桜」

 荘川から白川郷に至る川筋は、水量が豊富で、戦後電力が足りなかった時代、電源開発株式会社がその事業の第一号としてダム建設、水力発電所の建設にかかることになったが、湖底に沈む地元民の反対が強く難航した。

社長の高崎達之介は自らの死命をかけて反対派を説得して、同意を取り付けたと言う。ダムの完成に絡み、湖底に沈む寺の桜の老木を惜しみ、湖岸に植え替えたのが荘川桜である。

そのエピソードはWikipediaの御母衣ダムの所に詳しく書かれています。このような気概を持った人達が戦後の日本を築きあげる礎となったのでしょう。

 Wikipediaの紹介

荘川桜

御母衣ダムを語る上で欠かせないエピソードとして「荘川桜」の移植事業がある。

「御母衣ダム絶対反対期成同盟死守会」解散式の後、高碕(この時は電源開発総裁職を辞していた)は水没予定地を「死守会」書記長・若山芳枝らと共に歩いていた。光輪寺に差し掛かった時、樹齢350年に及ぶアズマヒガンザクラ(エドヒガン)に目が留まった。見事なその枝振りを見た高碕は同行していた社員にサクラの保護を要請。さらに当時サクラ研究の第1人者として「桜博士」と渾名されていた笹部新太郎にサクラの移植を依頼した。湖底に沈む予定の光輪寺のサクラ(重量約35トン)と照蓮寺のサクラ(重量約38トン)を50m上の山腹に引き上げ、約600m移動させるという前例がなく途方もない依頼に当初笹部は断ろうとしたが、高碕の熱意に折れてこの事業の総指揮を執ることとなった。

1960(昭和35年)、高碕と笹部は地元の造園業者・庭正造園の丹羽政光の助力を得て本格的な移植作業に取り掛かった。だが移植方法を巡って笹部と丹羽の意見が対立した。サクラは外傷に弱い樹木であり、少々の枝折れ等で簡単に立ち枯れするようなデリケートな植物であった。このためサクラに精通する笹部は枝も根も伐採せずに移植することを主張したが、丹羽はあまりにも巨木であるため伐採なしの移動は不可能として真っ向から対立した。その後丹羽はサクラの根等を計測するが、多くの根が張っていることと若い根が予想以上に多かったことから職人としての長年の経験と勘に基づき、笹部不在の際に独断で枝・根の伐採を行い移植を開始した。移植作業はダム本体工事を担当する間組も共同で実施、ブルドーザーやクレーン等大型機械を駆使して慎重に吊り上げ、国道156沿いの湖岸予定地に19601224日に移植が完了した。

根も枝も幹も伐採され無残な姿を晒した2本の老木を目の当たりにした笹部は、あまりのことに愕然としたといわれる。総責任者であった笹部には水没住民や植物学者、果てはマスコミに至るまで全国各地から非難の声が寄せられたという。笹部も後日談で「移植に失敗したら、サクラ研究から完全に身を引く覚悟であった」と回想していた。だが、翌1961年の春、サクラは移植場所に根付く「活着」に成功し蕾を付けた。さらに移植から10年後の1970(昭和45年)春、2本の老木は満開の花を咲かせ、11年に及ぶ荘川桜の移植事業は成功に終わった。高碕と丹羽はすでに亡くなっていたが、笹部や水没住民はサクラの移植場所に集合し、事業の成功を喜び合った。

サクラは電源開発第4代総裁・藤井崇治によって「荘川桜」と命名された。これには1964(昭和39年)、笹部が受け取った高碕からの手紙の中に「サクラの名前を取り決めておきたい」という文言があったというエピソードがあって、それが契機となっているがこの手紙が高碕の絶筆となっており、病床にあってもサクラを思う高碕の気持ちを窺い知ることができる。1966(昭和41年)1213日には岐阜県の天然記念物に指定されている。荘川桜は現在でも電源開発が保守・管理を直轄で実施しており、実際の手入れは現在も一貫して庭正造園が手掛けている。サクラはその後移植前よりもさらに枝葉を伸ばしているが、「死守会」書記長であった若山が荘川桜のすぐ傍らに二世を植樹、更に全国各地にも荘川桜二世が移植され花を咲かせている。例年4月下旬〜ゴールデンウィーク頃が見頃であり、春の飛騨高山祭りと共に飛騨地方に春を告げる風物詩にもなっている。

                     

                              荘川桜