名古屋の思い出(その1)

                        名古屋周辺の城

 「伊勢は津でもつ、津は伊勢でもつ、尾張名古屋は城で持つ」伊勢音頭に有るように、名古屋と言えば「城」について、まず、書く必要があるでしょう。

高校の友人が、来た時、まずは伊勢神宮へ案内し、続いて、名古屋周辺の城を案内しました。その時のルートを中心に、周辺の幾つかの場所も含めて書いて見ます。

 織田信長の最初の本格的な拠点といえば「清洲城」だが、今ある清洲城は、この辺にあったと言うだけで、後から造ったもの。戦国時代は、中山道、東海道、伊勢街道などの要で、一時、福島政則の居城となり、その後、徳川義直が入り、家康が東海道の要とするため、名古屋に城を移すことなり、町中が移住(清洲越し)、城の材料も名古屋城の建築に利用された。

             

            清洲城(五条川対岸より)                   清洲城天主閣

 ここは、JR東海道線、新幹線、名古屋高速のすぐ傍でよく見える。余談ながら、近くに麒麟ビールの工場があり、小生のいた稲沢市も会社からも近く、予算会議の後の部課長会などの打ち上げにも良く使った。

  さて、友人にはまずは名古屋城を案内。

清洲から名古屋に移るにあたり、その築城は全国の大名が資金や資材を出し、加藤清正が担当した。しかし、金の鯱で有名な天守閣も、広大な本丸御殿も、空襲で全焼し、戦後、再建された。そして、平成になってから、大掛かりな地下工事が行われたことはあまり知られていないかもしれない。

名古屋の経済の発展からすると、次は本丸御殿の再築ということになるのだろうか。 再建も決まったがこの不景気で果たして寄付金など大丈夫か?

名古屋城は、春の桜祭りの桜が綺麗、夏の名古屋城祭もにぎやかだが、ライトアップするため、近年特に増えたクマゼミとアブラゼミの大合唱で夜の風情が損なわれる。

            

                    本丸御殿跡から見た天守閣と金の鯱(展示模型)

              

                      天守閣から見た二の丸方向(クレーン辺りの高速の向こうに住んでいた)

 名古屋城の地下には、昔は抜け道があったそうであるが、今、三の丸側の名古屋城正面駐車場の地下には、名古屋の中心部に電力を供給する450MVA変圧器2台からなる巨大変電所が運用されている。この変圧器は、小生が居た工場で中部電力と共同開発した不燃変圧器で、同様の製品で150MVAのものが名古屋駅近くの下広井の地下変電所にも設置されている。

             

                    中部電力名城変電所(左側地上は能楽堂)

名古屋城の北東側にある黒川ICから都市高速に乗り、国道41号線から県道23号線で、木曾川の畔まで行くと、国宝犬山城である。ここは、成瀬氏と言う個人の持ち物であったと言う所が面白い。

この城は別名、白帝城とも言われ、成瀬氏が藩主であったが、明治の廃藩置県で天守閣以外は殆ど取り壊されたが、明治24年の濃尾地震で損傷を受けた際に、成瀬氏が修理すると言う条件で、その所有となったものである。しかし、近年、その保守管理をめぐる問題もあり、平成16年からは財団法人「犬山城白帝文庫」となっている。

友人と行った時は、快晴で木曽川がよく見えた。

三国志にも出てくる白帝城、そして李白「朝辞白帝彩雲間、千里江陵一日還、両岸猿声啼不住、軽舟己過万重山」の詩になぞらえた名をつけたのであろう。

                

                          国宝犬山城  

              
 
                  天主から岐阜方面を望む(下は木曽川)

犬山城から木曽川を渡り、21号線県道95号線岐阜各務原ICに向かう。木曽川沿いの95号線を行くと、航空自衛隊の岐阜基地があり、その傍にかがみがはら航空宇宙博物館がある。この各務原は戦前は空軍の飛行場で三菱重工大江工場で製作されたゼロ戦の試験が行われた所。三菱重工大江工場は名古屋港の東に位置しており、当時、ここまで牛車でゼロ戦を運んだとか。設計者である堀越二郎氏の「ゼロ戦」に開発の話が詳しく書いてある。

余談ですが、小生が名古屋の会社に行った当時、景気も悪く受注減で、この大江工場にあった三菱自動車大江工場に出向者を受け入れてもらい、その慰問に行った時、当時の設計棟などを見た。しかし、戦後、ゼロ戦に関する全ての資料や機体は破棄されてしまい、工場にも、博物館にも資料は全く無い。今は、三菱自動車もこの工場は閉鎖してしまった。

 友人とは時間も無く行かなかったが、別の機会に行った時には観客は少なかった。なんとなく、青森の北方舟の博物館と似た感じである。

                

                      航空宇宙博物館

各務原ICから東海北陸道を次の関ICまで進む。岐阜関は、関の孫六でも有名な刃物の町である。

ここで降りて長良川を渡り、川沿いに下っていくと対岸の金華山上に岐阜城が見える。再び、川を渡ってケーブルで山頂に上る。

ここは、木曽川長良川の間の山地の先端で、天然の要害でもあり、斉藤道三が占拠し、稲葉山城として覇を唱え、後に織田信長が天下布武を唱えて岐阜と称した戦国随一の山城である。

ここから、天気が良ければ木曾三川、名古屋まで一望できる。

 岐阜と言えば、尾張の稲沢一の宮からの一帯は、戦前戦後を通じて紡績業で財を成した企業家が多く、いわゆるガチャマンの時代には、大いに栄えた所である。長良川近くの高級料亭、お持ち帰り自由(何を?)の繁華街のバー、チョンの間のソープランドなど、何でも揃っていた。小生が名古屋にいた時代にも、まだその名残もあったが、紡績業は衰え御大尽の別荘や紡績会社の接待所などはレストランなどに変わっていた。名古屋から車で遊びに行き、飲んで帰る人も多く、名古屋も含め、大きな駐車場の無い店は成り立たなかった時代でもあった。

 長良川と言えば鵜飼が有名であり、昔から領主に保護されてきて、現在でも鵜匠は宮内庁式部職と言う大層な名前をもらっている。しかし、今は岐阜市自体が夜の世界が衰退して、こちらも観光客を集めるのに苦労しているようである。

鵜飼の鵜は川鵜より大きい海鵜でないと駄目と言うことで、茨城県十王町(今は合併して日立市)の鵜の岬で捕獲していることはご存知でしょう。

   

          対岸より見た岐阜城                    岐阜城天守閣

                

                    織田信長時代の岐阜(住居は下)   
                  

                天守閣から見た岐阜の町と長良川


   

          観光屋形船                         鵜飼の姿

         

      日本唯一の海鵜捕獲の岬(日立市)              鵜飼の鵜

 

 岐阜城を後にして国道21号線を、長良川、揖斐川と渡ると大垣である。大垣の町は、幾つかの川が集まる戸田氏10万石の城下町で、今でも水が綺麗な昔の堀で囲まれている。江戸時代、船で桑名と結ぶ重要な港町でもあった。

また、芭蕉奥の細道を廻って最後に到着した地でもある。

大垣城は廃藩置県でも、壊されずに残り、戦前は国宝に指定されていたが、第二次世界大戦の空襲で全焼し、今の天守閣は戦後に再建されたものである。

   

         大垣城                            船場港跡と灯台

  



    蛤の

      ふたみに別れ

          行く秋ぞ

 

                                        この句を残し、桑名に去った

          芭蕉像と句碑

 

「城廻り余話」

 この5つの城は、うまく廻れば一日で回れますが、資料館などをゆっくり見たい人は、2−3つずつ廻るのが良いでしょう。友人は、伊勢神宮へも行って時間が限られたので、4つとも一日で廻りました。小生は、別に廻ってもいます。

これ以外に、名古屋近郊で、見るべき城は、郡上八幡城岩村城などでしょう。郡上八幡は別の友達とも行ったことがあるので、そちらで紹介することにして、女城主で有名な岩村城について紹介したいと思います。

 

岩村城

 Wikipediaに次のように書かれています。

岩村が有名になったのは戦国時代である。当時、美濃を支配下に置いた織田信長は、宿敵である武田信玄の領国・信濃との要衝にある岩村城の重要性を考えて、城主・遠山景任に美貌で知られた自身の叔母・ゆうの方を妻として娶らせ、一門衆として遇していた。やがて足利義昭との対立から各国に信長包囲網が敷かれると、岩村元亀3年(1572)の武田信玄の上洛作戦に伴ってその家臣・秋山信友に攻められることとなる。城主・遠山景任は懸命に防戦したが、不幸にもその最中に病に倒れ、死去してしまった。信長も当時は浅井長政と対峙していたため、援軍を送ることができなかった。

城将がおらず、援軍の望みも無い岩村城はかくして武田軍の手に落ちた。しかしこのとき、秋山信友はこともあろうに景任未亡人のゆうの方を溺愛し、結婚してしまったのである。これを知った信長は激しく怒り、信玄の死や長篠の戦い武田氏が衰えると、即座に岩村城に対して大軍を差し向けた。信友は懸命に防戦したが持ちこたえられる訳が無く、捕らえられて岐阜に送られ、逆さ磔の極刑に処されてしまったのである。この時、信長は叔母のゆうの方、そして城兵全員までをも処刑している。信長の凄まじい怒りが虐殺という形で現われたのであった。

 

 中央道を中津川の手前、恵那峡で有名な恵那ICで下り、国道257号線を南に15kmほど下った山中に城跡がある。

江戸時代、何回か藩主が変わったが、最後は松平氏となり、明治に廃藩置県で岩村県となり、岐阜県に合併された。

美濃岩村城は、大和高取城、備中松山城とともに日本三大山城と称されている。戦略的に重要と言うことから造られた典型的な山城で、険しい苔むした石垣が杉林に囲まれ、本丸までの道は険しい。しかし、小谷城のような大規模ではなくまとまっている。戦国時代の戦いは、食料の補給、農兵の農作業への帰還などから、せいぜい半年が限界であったろうから、その位なら、攻めるは難く、守るは安いと言える城である。

   

        再現した二番櫓の辺り                黄色で示した辺りを再現

   

         6段に積まれた石垣                   城跡の一部(井戸)

この城は戦国時代の典型的な山城ですが、信長の時代、楽市楽座が開かれ、城は次第に平城となって行きます。琵琶湖周辺には、戦国時代の典型的な山城である浅井氏の小谷城もあり、織田信長安土城なども有り、この辺りの城を訪ねて回るのも面白い。

こちらも、廻ったので機会が有れば紹介します。